雲のように自由でありたい・・・が。
昨日から今朝にかけてポータル心電図をつけていたので緊張していました。普段より少しはドキドキしたかも。
・・・・・・・・・・・・・・
晋の高僧で廬山に隠れ棲んだ慧遠(334〜416)の弟子に慧要というひとがあったそうです。
このひと、
尤長巧思。
もっとも巧思に長ず。
抜きんでて技術力が高かった。
たとえば、あるとき、慧遠さまたちは、衆僧が勤行をする時刻を共通にすることにしたのですが、
山中無刻漏。
山中に刻漏無し。
廬山の山奥には、時計が無い。
そこで、この慧要さま、
「わたしがなんとかいたしましょー」
と言いまして、ガチャガチャガチャ・・・、
「よーし、できあがりー」
乃於泉水中、立十二葉芙蓉。
すなわち泉水中に十二葉芙蓉を立つ。
泉の中に十二の葉のついたハス(の形をした器械)を造った。
この器械は、
因流波転以定十二時。晷景無差焉。
流波の転じるに因りて以て十二時を定む。晷景(きけい)に差(たが)う無し。
水流の動きによって(時間の経過を計り)、花の向きが、一時から十二時までをそれぞれ示す葉の方向を指すようになっており、その時刻は、昼間、日時計で確認してみても間違いは無かった。
のだそうでございます。
このほか何百メートルも飛ぶ木製のグライダー(「木鳶」)も作った、という。
―――と、梁・釈慧皎「高僧傳」巻六に書いてあります。
さて。以上は「ハスの花の時計」を説明するための前置き。
それから約四世紀ぐらい過ぎて、唐の時代。あるひとが山中の寺に泊して、僧侶に書いて送った詩―――。
大道本来無所染、 大道は本来染めらるるところ無く、
白雲那得有心期。 白雲はなんぞ得て心の期すること有らん。
大いなる道は、もともと何物にも影響されることなどない。
白雲はどうして誰かの予想どおりに動くことがあろうか。
大自然は、ひとの営みになど関わりなく活動しているのである。
しかるにこの大自然の中で、
遠公独刻蓮華漏、 遠公ひとり蓮華漏(れんげろう)を刻み、
猶向山中礼六時。 なお山中に向(お)いて六時に礼す。
慧遠さまのように高尚なあなただけは、蓮の花の時計を作って、
山中の寺で今も昼夜六時、時刻どおりの勤行を続けている。
規則正しく、とはいっても何かに縛られてそうするのではなく、自らを律して静謐な宗教生活を送っているのである。うらやましいことだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
唐・張喬「寄山僧」(山僧に寄す)(「三体詩」七言絶句「実接」所収)なお、「実接」というのは、第三句が「実体あるもの」(この場合は実在人物である「遠公」)ではじまるタイプの詩、ということなんだそうです。
規則正しい宗教的生活はうらやましいのですが、こちらは明日も時間通りに世俗社会に出勤しなければなりません。あとどれぐらいで白雲になれるのかな。