のどかにありたいものですが。
週末です。ほっとするけど、明日はまたちょっと出かけます。
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疑問ができたので、明の時代の祝おじさんに質問してみます。
―――ニンゲンのサダメというのはどういうものなのでしょうか。
それは簡単なことや。「生老病死」をするものですねん。
生老病死如春夏秋冬、逓至乎前、誰能違之。
生老病死は春夏秋冬の如く、逓(たが)いに前に至るなり、誰かよくこれに違わん。
生老病死というのは、春夏秋冬と同じように次々に我が前に現れてくるものなので、誰にもこれを避けることはできまへん。
キミの前にももういくつか来とるやろ。
有物焉、生而不生、老而不老、病而不病、死而不死、千万人無一人信得及。
物有りて、生じて生ぜず、老いて老いず、病みて病まず、死にて死なざるは、千万人に一人も信に及び得る無からん。
存在しているもので、生まれてきたが生まれていない、老いたが老いていない、病んだが病んでいない、死んだが死んでいない―――こんなやつが千万人の中に一人いる、といわれても信じられるものではありまへん。
誰もかれも、
竟、逐逐焉、与化倶徂。悲矣。
ついに、逐逐焉として、化とともに徂く。悲しいかな。
結局は、追われるかのように、自然のはたらきとともに遠く旅立っていくのや。悲しいことやおまへんか。
―――それではどうすればいいのでしょうか。
よく言わることやけど、生きている間に日々を充実して生きることやろ。
千生万劫、只在此生。一生百年、只在此日。
千生万劫なるもただこの生に在り。一生百年なるもただこの日に在り。
千回生まれ変わって一万劫も生きるとしても、本当に確かなのはこの人生だけですねん。一生が百年あるとしても、本当に確かなのはこの本日だけですねん。
此日一信、歴萬劫而不磨。此日一疑、度百年而如夢。
この日一たび信ならば、万劫を歴(ふ)るも磨せず。この日一たび疑ならば、百年を度するも夢の如きなり。
今日のこの日を真実に生きたならば、その充実は一万劫の時が経っても擦り切れてしまうことはありまへん。今日のこの日が偽りでいい加減であるならば、百年生きたとしても、夢のように空しく生きたということにしかなりまへんで。
―――真実に生きるとはどういうことでしょうか。
説明はたやすいけど、難しいことでっせ。
雲白山青、川行石立、花迎鳥笑、谷答樵謳。万境自閑。
雲白く、山青く、川は行き、石は立ち、花は迎え、鳥笑い、谷は答え樵は謳う。万境おのずから閑なり。
雲は白く、山は青く、川は流れ、岩は立ちはだかり、花は出迎えてくれ、鳥は笑ってくれ、谷はこだまを返してくれ、そんな中で木こりが歌っている・・・。世界はもともとのどかなものではおまへんか。
この「閑か」ということが大切なんですわ。
しかるに、
人心自鬧。
人心おのずから鬧(さわが)し。
ニンゲンの心はどうしても騒がしい。
ので、なかなか難しいことですねん。あんさんに出来ますやろか?
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明・祝世禄「祝子小言」より。
祝子の発言が関西弁になっていることに深い意味はありません。あくまでもフィーリング。