平成28年1月26日(火)  目次へ  前回に戻る

冬眠中に夜食を食べるような一瞬の解放感。

今日は一日外勤。会社にいるよりはずっと楽しかった。しかし明日はまた職場で、コロされるカモ。

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奇士不可殺、 奇士は殺すべからず、

殺之成天神。 これを殺さば天神と成らん。

 こんなおかしなオトコは殺すべきではない。

 こいつを殺すと天の神になりおおせてしまうだろう。

奇文不可読、 奇文は読むべからず、

読之傷天民。 これを読まば天民を傷(いた)めん。

 こんなおかしな文学は読むべきではない。

 これを読んだら天に守られてるはずの人民たちが不幸なことになってしまうだろう。

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清・龔定盦「夜読番禺集書其尾」夜、番禺集(ばんぐうしゅう)を読みて、その尾に書す)二首のうち第二。

「奇士」(おかしなオトコ)というのは定盦より百五十年ほど前のひとである屈大均、字・翁山を指しています。

実は「番禺集」という書物が存在するわけではありません。「番禺」は広州の古い呼び名。明の末、清の初めに清朝に抵抗し続けた広東出身の大学者・屈大均の文集は、その反清思想のゆえに禁書となっておりましたが、定盦はそれを入手して読んだ。直接に屈大均の文集と言えないので、「広東のひとが書いた本」という意味で「番禺集」という仮の名をつけたものだそうです。

この本を読んで感動した。

屈大均は実際には死刑になったわけではなく、晩年は郷里に潜んで隠者として亡くなったのですが、反清活動家ということで、場合によっては死刑にされたかも知れない。死刑にしなかったのでよかった、死刑にしていたら天つ神となって祟ったであろう。そして彼の文章は天下の士民を奮い立たせるような内容であるから、その文章を読むとひとびとは正義を行おうとして周囲(あるいは権力)と争い、必ず不幸な人生を送ることになってしまうだろうから、読まない方がいい、という、逆説的な賛辞になっているんです。

奇妙な詩である。

 

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