おれたち何人かかっても、できるひとにはかなわない。
本日は会社サボり。
今日ぐらいから、もうすぐ来年になるとまた会社かと思って、もう暗くなってくるひとがいるカモ知れません。おいらは会社が始まるころにはまたあの世に戻りますからいいのですが。
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原始の時代にチャイナを支配した黄帝というひとはたいへんシゴトをした人で、衣装やら船やら弓矢やらを考え出した、とも言われますが、このひとの若いとき、
神農氏衰、蚩尤氏叛、不用帝命。
神農氏衰え、蚩尤氏叛し、帝命を用いず。
当時の支配者であった神農さまのお力が衰え、蚩尤(しゆう)さまがご叛乱なさって、神農さまのご命令を聞かなくなったのでございます。
黄帝さまはこの情勢をご覧になって、
修徳化民、諸侯帰之。乃擾馴猛獣、与神農氏戦於阪泉之野、三戦而克之。
徳を修めて民を化すれば、諸侯これに帰す。すなわち猛獣を擾馴して、神農氏と阪泉の野に戦い、三戦してこれに克てり。
徳を修め、人民を教え導いたので、諸侯の多くは彼に服従するようになった。そこで、猛獣たちを飼いならしたのを先頭に立てて、阪泉平原で神農さまと会戦なさり、三度戦ってついにこれを打ち破った。
次いで、
直討蚩尤氏、擒之於涿鹿之野、使応龍殺之、凶黎之丘。
ただちに蚩尤氏を討ちてこれを涿鹿(たくろく)の野に擒(とら)え、応龍をしてこれを凶黎の丘に殺さしむ。
すぐに蚩尤さまと涿鹿平原で会戦され、大いに勝って蚩尤さまを捕虜にし、配下の応龍に命じて、彼を凶黎の丘で死刑にしたのである。
その後も
諸侯有不服者、従而征之、凡五十二戦而天下大服。
諸侯の服せざる者有れば従いてこれを征し、およそ五十二戦して天下大いに服す。
諸侯の中に言うことを聞かない者が出るとその都度これを征伐し、だいたい52回征伐して、ついに天下大いに服従した。
そこで黄帝さまは仰いでは天文を見、俯しては地理にかんがみて、官制を定め、官吏を監視する方法を定め、医術のスタンダードを整備し、また文字を作らせ、人民たちに家を建てること、死者を葬ること、縄を結んで意思を伝えることを教えたのであった。
原始のひとびとを文明へと導いた「文化英雄」だったのである。
於是人事畢具、黄帝在位百年而崩。年百一十歳。
ここにおいて人事具え畢(おわ)り、黄帝在位百年にして崩ず。年百一十歳なり。
こうして、人類の文明を整備しおえたころ、黄帝さまは在位百年にしてついに崩御した。御年百十歳という。
また、
或伝以為仙、或言寿三百年。
或いは以て仙と為ると伝え、或いは言う、寿三百年なり、と。
崩御したのではなく仙人になったのだという説もあるし、三百年生きられた、という説もある。
このことについて、孔子の高弟・宰我さまが疑問に思って孔子に質問した。
「果たして黄帝さまは何歳まで生きられたのでしょうか。百十歳でもどうかと思いますが、三百歳というのはあり得ることではないように思いまっちゅるが」
孔子答えて曰く、
民頼其利、百年而崩。
民、その利に頼り、百年にして崩ざるなり。
人民たちが黄帝さまの治政に依存しておる状況で、百歳で崩御した、というのが真相だ。
それから
民畏其神、百年而亡、民用其教、百年而移。故曰三百年。
民その神を畏るること、百年にして亡なわれ、民その教えを用うること、百年にして移る。故に三百年と曰えり。
人民たちは百年間、黄帝さまの神霊としての力を畏れかしこみ、生きておられると同じように崇拝したのだ。そのあとまた人民たちは百年間、黄帝さまの教えた方法を用いて生活を保っていたのだ。だから、合わせて「三百年間支配した」といわれるのである。
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なるほど、これは納得。晋・皇甫謐「帝王世紀」巻一より。
百年ぐらいシゴトしただけで「三百年していた」ように言われたんです。われわれも今年一年シゴトしたから、来年と再来年はサボっていいのでは?