読書の秋。本に書いてあることは本当のことが多い。
お彼岸の中日なのに、もう明日は平日? もう少し休ませるともっと治るのに・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・
お彼岸なのでドクロちゃんのお話を一席。
天正二年(1574)の正月元日、近畿一円の将士たちは岐阜に集まってノブナガさまに正月の賀を申し上げておった。
宴席の酒が三度いきわたったころおい、ノブナガさまが皆に向かっておっしゃるには、
我有佳肴、請侑飲焉。
我に佳肴有り、請う、飲を侑(すす)めん。
「そうそう、すばらしい酒の肴があるのじゃった。みなの衆の酒が進むように、引き出させようず」
そして、
令左右取一函、来置之座上。
左右を令して一函を取らしめ、これを座上に来たり置かしむ。
近侍の者に命じて箱を一つ持ってこさせ、宴席に置かせた。
衆嘱目焉。
衆、嘱目す。
みんな、じろじろ見ました。
「これは、なんですかな?」
「ひっひっひ、これはアレじゃよ、アレ」
ノブナガさま、得意げに
「カツイエ、開けてみよ」
と命じましたので、柴田カツイエさま、おん手ずから箱のふたを開いたところ―――
「おお!」
中から出てきましたのは、
義景・長政首也。塗以金粉。
義景、長政の首なり。塗るに金粉を以てす。
昨年討ち取った朝倉ヨシカゲ、浅井ナガマサの首であった。表面に金粉を塗って腐敗を防いであった。
「なんとのう」
「これでござったか」
「いや、これはめでたい」
諸将皆笑曰、有此好下物、何辞満酌也。
諸将みな笑いて曰く、「この好き下し物有り、なんぞ満酌を辞さん」と。
万座の諸将たち、みな「わはは」「いひひ」「えへへ」と笑いながら申すには、
「こんな素晴らしい肴をいただけたのです、どうして盃になみなみと注がれた酒をお断りすることがありましょうか」
と。
ノブナガさまも満足そうに、
「この数年、諸公らとともに京都周辺の経略に苦労したのはひとえにこの二人のせいであった。いまその二患を倒すことができたのはみなのおかげである」
そして刀剣を賜わり、いつはてるとも知れぬ宴席が続くのであった・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・
と、いつもながら見てきたようなことを漢文脈で述べるのは、頼山陽先生の「日本外史」(巻十四・織田氏下)でございます。
さすがのノブナガさまも首に金粉を塗って見世物にしただけのように書かれておりますが、一説によれば二人の頭蓋骨を使って盃を作って、それでみなに酒を飲ませた、とも申します。いわゆる「髑髏杯」でございますね。
我が国ではここまでおやりになったのはノブナガさまぐらいしか聞きませんが、チャイナではもう日常茶飯事的に行われていたと思われるのですが、諸侯クラス以上のドクロちゃんを盃にした、というのは歴史上三例しかない(そうです)。
(1)戦国のころ、晋の内紛の際、趙侯が智伯に追い込まれましたが、ギリギリでうっちゃって勝ったとき、智伯のドクロ杯を作った。
(2)匈奴が月氏と戦ったとき、月氏王を捕らえて頭を斬りまして、ドクロ杯を作った。
(3)元の時代、南宋を滅ぼした後、モンゴルと結んだ仏教の一派が南宋の皇帝の陵墓を暴き、理宗と思われるひとの遺体から頭蓋骨をとって、これをドクロ杯にして皇帝に献上した。
よくよく見ますと、このうち、(1)と(3)は被害者が漢族の王侯です。このためこの二つの例はあまり喜ばれないのですが、(2)は異民族同士の話なので
「わははは、これは楽しい」
とされ(←そういう文化なんです)、多くの詩歌に歌われてまいりました。
ここではその中でも傑作といわれます、元・顧亮の「月氏王頭歌」(月氏の王の頭の歌)を読んでみましょう・・・と思いましたが、明日はもう平日。そろそろ寝る時間なので、残念ながら明日(以降)にさせていただきます。
・・・明日は実はつらいシゴトあり。うまくいくはずないので、首切られの可能性もあります。明後日ぐらいには磨かれて、どくろ杯になってお偉方の宴会で笑われているカモ。
ヒガンバナ。あの下には・・・。