かきごおりでむくんだ体がもとに戻らぬ。
ああ。また明日は平日か。秋になったというのに毎週毎週平日が来ます。ご苦労さまなことです。しかしわたしはもうすぐ隠棲することになっているので、平日も休日も関係無いことになるんですけどね・・・。
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むかしむかし、まだ都が大和の国、あをによし奈良の地にありましたころのこと、
試出囂塵処、 試みに囂塵(ごうじん)の処を出でて、
追尋仙桂叢。 仙桂の叢を追尋せん。
ちょっとイヤになりましたので、うるさくてほこりっぽい現世から出ていきまして、
聖なる桂の茂っている仙界を、尋ね求めに行ってきます。
という人がおりましたのじゃと。
このひとがどんどん山の中に入って行きますと、(吉野方面か、あるいは月ヶ瀬・柳生の方か・・・)
巌谿無俗事、 巌谿には俗事無く、
山路有樵童。 山路には樵童有り。
岩の多い溪谷には俗世のことは何にも無い。
山の中の小道を歩いていると、キコリのコドモとすれちがうばかり。
「童」は「コドモ」ではなくて、人文の開明していない蒙昧の男衆をいう文字ですが、めんどくさいので「コドモ」にしておきます。
ああ。
泉石行行異、 泉石は行行に異なるも、
風烟処処同。 風烟は処処に同じきなり。
水の流れ、岩のかたちは、どこに行っても違っているが、
風の爽やかさ、霧や靄のすがたは、どこにいてもよく似ている。
山中はほんとうにすばらしい。
みなさん羨ましいでしょうなあ。
欲知山人楽、 山人の楽しきを知らんとすれば、
松下有清風。 松下に清風有り。
山中に棲む隠者の楽しみを知りたければ、
松の木蔭でさわやかな風に吹かれてみるがよい。
うっしっしー。
と、これは隠士・忌寸黒人(いみきのくろひと)の「幽棲」。
忌寸黒人には「懐風藻」(←一発変換)にもう一首、「独坐山中」の五絶あり。
煙霧辞塵俗、 煙霧、塵俗を辞し、
山川壮処居。 山川、処居を壮んにす。
もやと霧の中に暮らしております。ごみごみした俗世から逃げ出して来た。
山と川の間、棲んでいるところはすばらしいところだ。
此時能草賦、 この時、よく賦を草し、
風月自軽余。 風月はおのずから余を軽くせん。
こんなときには詩を作りたくなってきますよ。
風と月は、おのずとおいらを軽やかにしてくれる。
軽やかになると、空に浮かべて仙人に近づく、ということなんです。
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「懐風藻」は天平勝宝三年(751)に撰せられた我が国最初の漢詩集であります(撰者は淡海三船(あふみのみふね)ならん、とする説があるが確かではない、そうです)が、少年時代に一覧して「チンプンカンプン」だった記憶がありマジメには滅多に閲しませぬ。でもフマジメには読んでいるので、このたびぱらぱら漫画みたいにぱらぱら見てたらこの隠者の詩があったので
「そうか、奈良時代にもこんな人がいたのだな、ようし、わしも続かねば。みなさんにも参考になるかな?」
と思ってご紹介してみました。