平成27年8月3日(月)  目次へ  前回に戻る

よいこは危険な場所には近づかない! はやくここ(現実社会?)から逃げ出さないと・・・

月曜日。社会の厳しさにコドモに戻ってしまう。

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コドモといえばかわいく童謡を歌うものでございまちゅるが、いにしえには「童謡」は分別無き者たちの間に湧き起こる歌であり、歌う者たちの思考ではなく天が歌わせているものだと推測され、その歌の中には何か将来をあらかじめ言う、すなわち「予言」する意味が含まれている、と考えられた。のでちた。

南北朝の終わりに近い北斉の武平元年(570)の春、こんな童謡が流行った。

狐截尾、你欲除我我除你。

狐の尾を截り、なんじ我を除かんと欲せば、我なんじを除かん。

きーつね、きつね、しっぽが切れた、

おまえがおいらを除け者にしたら、おいらがおまえを除け者に。

ひとびとは何を指しているのであろうかと首をひねったが、この年四月、

隴東王胡長仁謀遣刺客、殺和士開。事露、反為士開所譛而死。

隴東王・胡長仁、謀して刺客を遣わし、和士開を殺さんとす。事露われて、反って士開の譛(そし)るところと為りて死す。

隴東王の胡長仁が暗殺者を派遣して、君側の権臣である和士開を殺そうと謀った。ところがこのことがバレて、反対に士開から批判されて帝の怒りにあい、殺されてしまった。

という事件が起こったので、

「そうか、あの歌はこのことを言っていたのか。「狐」とは「胡」長仁のことを指していたのだなあ」

とその予言の的確であったことを知った。

その翌年、武平二年(571)、こんな歌が流行った。

七月刈禾傷早、九月喫餻正好。十月洗蕩飯甕、十一月出却趙老。

七月、禾(か)を刈り早きを傷み、九月、餻(こう)を喫するにまさに好し。十月、飯甕を洗蕩し、十一月、趙老を出却す。

七月にイネ(「禾」は稲類の総称)を刈った。早すぎてかわいそう。

九月にビスケットを食べる、ちょうどいい時期。

十月には飯釜を洗っておこう、

十一月には趙のじいさんが追い出される。

マザーグースみたいでかっこいいでちゅねー。

さて、この歌はコドモたちが歌って歩いたのだが、不思議なことに

小児唱訖、一時拍手、云殺却。

小児唱い訖(おわ)れば一時に拍手し、云う、「殺却す」と。

コドモたちはこの歌いを歌い終わると、みんな一緒に「ぱん」と手を拍ち、声を揃えて「やっちゃった!」と叫ぶのである。

ひとびとは何を指しているのだろうかと首をひねったが、皆目見当がつかないでいた。

ところが、七月二十五日に至って、クーデ・タが起こり、

御史中丞琅耶王儼執士開、送於南台而斬之。

御史中丞・琅耶王・儼、士開を執らえ、南台に送りてこれを斬る。

御史の中丞(検察庁次長)の琅耶王・高儼が和士開を捕らえ、刑事裁判所の南台に送致して、斬殺した。

「なるほど、そうだったか」

ひとびとは、これが「七月に禾を刈る」(和を斬る)ということであったのに気づいた。

さらに九月、

琅耶王遇害。

琅耶王、害に遇う。

琅耶王の高儼が暗殺された。

「あ、そうか。「餻」(こう。カオ。焼き餅菓子)とは「高」氏のことだったんだ」

「九月に餻を喫す」とは九月に高儼が殺される、ということであったのだ。

十月、多くの関係者が訴えられて刑死したり、暗殺されたりした。「飯釜が洗われた」のである。

十一月、趙彦深出為西兗州刺史。

十一月、趙彦深、出でて西兗州刺史と為る。

十一月には、一連の事件の糸を引いていたと目された政界の長老・趙彦深が朝廷を追われ、河南の西兗州の知事に左遷された。

「趙老が出却」されたのであった。

ひとびとは童謡が見事にこれらの事態を予言していたことを知って、大いに驚いたのであった。

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「隋書」五行志より。(「楽府詩集」巻八十九にも所載)

不思議でちゅねー。でも、予言の指し示す内容がわかるのは事後になってからである、というところがコドモ心にもちょっとさびしい気がします。

おいらの明日からの状況は簡単に予言できまちゅ。歌を忘れた金糸雀のように、裏のお山に棄てられるんだろうなあ。みなちゃん、ごきげんよう。(T_T)

 

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