休みたい、休みたい、休みたい〜。
うつ。なんにも積極的にしようとしない、というか、できない。考えるのもできない・・・ような感じがする。
結局、現実の具体的なことを解決しようとせず、↓こういう問題に逃げてしまう。若いときからずっとそうだなあ、おいらは。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
芭蕉慧清(ばしょう・えしょう)は九世紀の新羅の人、唐にやってきて南塔光湧(850〜938)の法を嗣いだ。
あるときこの芭蕉和尚が禅僧たちに言った。
你有拄杖子、我与你拄杖子。你無拄杖子、我奪你拄杖子。
なんじに拄杖子(しゅじょうす)有れば、我、なんじに拄杖子を与えん。なんじに拄杖子無ければ、我、なんじの拄杖子を奪わん。
「拄杖子」(しゅじょうす)は要するに「杖」です。禅僧は行脚(あんぎゃ)の際にこの「拄杖子」をついて出かける。
―――おまえたちが杖を持っているのなら、わしはおまえたちに杖をくれてやろう。おまえたちが杖を持っていないなら、わしはおまえたちの杖を奪い取ってしまうぞ!
以上、宋・普済編「五灯会元」巻九より。
むむむ!
このおっさんはアホなのか?
杖Aを持っているなら、杖Bをくれる。これなら二本になるだけだから語義矛盾はありませんが、杖Cを持っていないなら杖Dを奪い取る。持っていないものをどうして奪い取れるのだ?
この説示をどう考えればいいのでしょうか。
うーん。
考えるのイヤなので三分ぐらいだけ考えてもう忘れてしまおうと思います。三分だけ考えてみました。
宋の無門慧開(むもん・えかい)がこのコトバのあとに、雲知慈覚(うんち・じかく)の句を録して曰く、
扶過断橋水、 扶けて断橋の水を過ぎ、
伴帰無月村。 伴いて無月の村に帰る。
若喚作拄杖、 もし喚びて「拄杖」と作せば、
入地獄如箭。 地獄に入ること箭(や)の如し。
橋の落ちた水を渡るときには助けられ、
月の無い夜の村に帰るときに手にしている。
そんなものをもしも「杖」だと思っているのなら、
まるで矢のように、あっという間に地獄行き。
「雲知慈覚」ってやっぱり「うんち和尚」と呼ばれていたんですかね? うひひ。(一分経過)
それはさておき、無門慧開は、つまり、芭蕉和尚のいう「杖」は「杖」ではない、というヒントをくれているようです。
・・・むむむ。だからなんだというのか。
無門慧開さらに教えていう、
諸方深与浅、 諸方の深きと浅きとは、
都在掌握中。 すべて掌握中に在り。
撐天并拄地、 天を撐(ささ)えるもならびに地を拄(ささ)えるも、
随処振宗風。 随所に宗風を振るわん。
あちこちの方々の悟りの深いとか浅いとかは、
すべて握っているそのてのひらにあるのだぞ。
天を支えるときも大地を支えるときも
どんなところでも悟りの力を振るっておる。
「杖」ではなく、それを握っている「手のひら」の方? (二分経過)
ということは・・・。
水を渡り、闇の道をたどるときに自分が頼っているのは、「杖」ではなく、他のことなど考えずに一心になって「水を渡ろう」あるいは「道を踏み外すまい」とするギリギリの精神の力のことなのでは?
・・・つまり、芭蕉和尚のいう四つの「杖」は、
杖A ・・・ 余念無きギリギリの精神状態
杖B ・・・ 必ず悟れる、という確信
と言い換えられないか。
そして
杖C ・・・ これは杖Aと同じ、ギリギリの精神状態
それを持っていないときに奪われる「杖D」とはつまり・・・
ああ〜! 残念ながら、ここで三分経過!
考えるの止めたので、ここまでといたします。
・・・・・・・・・・・・・・
宋・無門慧開「無門関」第四十四則。
今週はもう四日も会社に行ったのに、明日もまた行かないといけないらしい。これも社会や会社で「普通のひと」として扱われたい、という余念があるからだよなあ。あーあ、誰か余念など奪ってギリギリの精神状態にしてくれないかなあ・・・。