今日みたいないい日が平日だったら○○しちゃうかも。
青空、白い雲、さわやかな風・・・今日はホントに○○にもってこいの日、だったかも。
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↓とりあえずこんな生活にもってこいの日でしたね。
朝酒四三杯、 朝(あした)に酒のむ、四三杯、
晩飡一臠肉。 晩には飡(くら)う、一臠肉。
涼風吹面来、 涼風、面(おもて)を吹きて来たり、
酔味快且熱。 酔と味、快くしてかつ熱なり。
朝酒を三四杯ぐらいいただいた。
晩飯には、(滋養強壮によいという)一切れの肉を食う。
涼しい風がおいらの顔を吹きすぎる。
酔い心地も味わいも、こころよいし、あたたかい。
神代には獣肉を「シシ」といい、それは「噛みシめる」や「食いシばる」の「シ」と何等かの関係があって、古代では肉とは「噛み切る」ことの「原始的な口内感覚に発した音か」ともいわれております(木村紀子「「食いもの」の神語り」(角川選書・平成27.1)p.92)。
腹減った。牛めし食いたい。
だが、
玉堂琴士一銭無、 玉堂琴士に一銭も無し、
只有琴尊兼画図。 只有るのみ、琴と尊と兼ねて画図と。
琴弾きのわたくし(浦上玉堂)には、一銭の金も無いのである。
ただ、琴と、さかずきと、それから(自分で描いた)絵があるばかり。
これでは牛めしも食えませんね。
けれどまあよろしい。
誰識独絃黙対処、 誰か識らん、独絃に黙対するところ、
折衷太古伏羲徒。 太古の伏羲の徒と折衷せるを。
「独絃」というのは、陶淵明が「無絃の琴」を持っていって、それを心の中で弾いて興じた(要するにエアーギターです)ことを踏まえているのでしょう。陶淵明はまた、夏の日に日蔭で寝ているのは(何の憂いも無かったという)太古の王・伏羲の時代のひとのようなシアワセな状態だ、とも言っております。
なかなか想像できますまいが、わたくしは、一本だけ糸を張った琴の前、黙って曲をイメージして、
はるか原始の伏羲の時代のひとびとと心をひとしくしているのでございますからね。
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浦上玉堂「飲酒」「閑中自詠」詩。
おいらも早く玉堂居士のようにスパっと宮仕えを○○しなければね。今日みたいなスバらしい「休日」があるのでついつい日和ってしまっていますが、そのうちまた追い込まれて○○してしまうかもしれないし・・・。
ちなみに「折衷」は「折中」と同じで、刑罰を裁くときに、判断が正しいこと、あるいは軽重の中庸よろしきを得ていることをいう。
決獄折中、不殺不辜、不誣無罪。
獄を決するには折中し、不辜を殺さず、無罪を誣せざれ。
刑罰を決定するときには、その判断よろしきを得て、罪せざるものを死刑にせず、罪無きものに罪を着せてはならぬ。
と「管子」(小匡篇)にあり。
我が国では一般に、二つの説の良い所や中間をとって新たな説を立てる「折衷説」のように「いいとこ取りする」とか「日和る」といった意味で使われますが。