果たして乗り越えられるか。
土日終わった。また明日からキビしい現実社会が待っているのだなあ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
漢の時代のことだそうです。
益州(蜀=四川)の刺史に任ぜられた琅邪出身の王陽というひと、馬車で管内の視察に出た際、
至九折阪。
九折阪に至る。
厳道県にある名高い難所・九折阪(きゅうせつはん。何回も折れ曲がった嶮しい坂道)に到着した。
王陽を乗せた車は何度も車輪を滑らせそうになりながら坂道を越えた。
ようやく乗り越えたところで、王陽は、
歎曰、奉先人遺体奈何数乗此険。
歎じて曰く、「先人の遺体を奉じて、いかんぞしばしばこの険に乗ぜん」と。
「先人の遺体」の「先人」は両親・先祖のこと。その「遺体」というのは(ゲンダイ日本の「遺体」とは意味が違いまして)、両親が遺してくれた自分の身体、ということです。それを「奉じる」といっているのは「大切にする」ということ。親がくれたものなので大切にしなければならない、髪や爪さえ傷つけてはならない、というのがチャイナの伝統的な知識人の考え方なんですな。
王陽、ためいきをついて言った。
「両親が遺してくれたこのわしの体だ、大切に扱っているのに、どうして何度もこんな危険にさらしていいものか」
そうして、
以病去。
病を以て去る。
病気だと称して職を辞してしまった。
これを「九折回車」(九折阪まで来たら車を返す)と申しまして、孝子は両親の遺してくれたものを(身体に限らず)大事にする、ということをいう故事成語となっているのでございます。
さて、王陽の後、王尊というひとが赴任してまいりました。王尊は涿郡・高陽のひと、と言いますので、琅邪王氏の王陽とは別族でありますが、やがて管内視察で、やはり九折阪までやってきた。
お附きの役人が申し上げた。
「ここが九折阪でございます」
王尊曰く、
此非王陽所畏道邪。
これ、王陽の畏るるところの道にあらざるか。
「これが、王陽どのが恐れはばかった道なのか」
「さようにございます」
すると王尊は、自らの馬車の御者に向かって、
叱曰駆之。
叱して曰く、「これを駆れ」と。
「はやく行け!」と怒鳴った。
そして言う、
王陽為孝子、王尊為忠臣。
王陽は孝子たり、王尊は忠臣たり。
「王陽どのは孝子であられた(から、この道を避けた)。この王尊は忠義の臣である(から、公務の必要があればどんな危険も冒すのだ)!」
と。
これはこれで「叱馭九折」(馭を九折に叱す、九折阪で馭者を怒鳴る)という故事成語なのでございます。
・・・・・・・・・・・・・・
「漢書」巻76所収「王尊伝」より。
孝子・忠臣はしようがないけど、馭者やお付きの役人はよくがんばってそんな険しいところ登ったなあ。おいらはたとえ命令され怒鳴られても、そんな険しいところを登る技術・体力さえ無いように思われます。明日からも低いところを行くことにします。