平成27年5月18日(月)  目次へ  前回に戻る

手酌酒、演歌をききながら〜。

平日まだあと四日。

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觥船一棹百分空、 觥船(こうせん)一たび棹すれば百分も空しく、

十歳青春不負公。 十歳の青春、公にそむかず。

「觥」(こう)はぴかぴかの角製のさかずきをいう言葉。「觥船」はその角製のさかずきが舟の形をしているので、「角製さかずきの舟」と言ってしゃれ込んだもの。普通にいえば「舟の形の角製のさかずき」ということです。「一たび棹する」の「棹する」は普通には舟を動かすために棹を動かすことを言いますが、ここは直前に「さかずきの舟」と洒落たので、その縁でさかずきをぐぐいと飲み干すことを「棹する」と言った、ようです。「百分」は百に分けたそのすべて、で要するに「全部」のこと。
「公」は二人称の敬称ですが、従来の注釈者たちによれば、@自分のことを「おまえさん」と言っているのだ(禅語にいわゆる「主人公」)、あるいはAお酒に「おまえさん」と呼びかけているのだ、と解されています。Aも吉幾○さん的で捨てがたいけど、ここでは@と解しておきます。

舟のかたちのぴかぴかの角さかずき。一回ぐぐいと傾ければ、なみなみとした酒も飲み干してもう空っぽだ。

青春の時節の十年間、おいらはおまえさんの言いなりだった。「おまえさん」とは、おいらの本性のことだけどさ。

好き放題に生きてきたのだ。

ところが、まあ。

なんということか。

今日鬢糸禅榻畔、 今日、鬢糸となりて禅榻の畔(ほと)り、

茶煙軽颺落花風。 茶煙は軽く颺(あ)がる、落花の風に。

 今や鬢の毛は糸のように白くなり、寺院のこしかけに座り、

 茶を煮る煙がふわふわとあがっているのを見つめているとは―――花を散らせる晩春の風の中で。

青春は終わったのですなあ。

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「三体詩」所収、杜牧「題禅院」(お寺の壁に書きつけたうた)。

本日は「山崎ハコ デビュー40周年 バースデー・ライブ・オン・ステージ 山崎ハコは四十歳」に行ってきました。シゴトの弾圧で一時間近く遅刻。ハコさんの歌を聞いたとて、果たしておいらに思い出すべき「青春」があったのか?

 

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