「既に俗世から脱がれているでポックル」
時は流れ、とうとう5月4日まで来ました。平日まであと・・・。おいらもそろそろ現世から逃げ出す準備しておいた方がいいカモ。
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日本のひとのなので「和習」と批判的にいわれますが、いかにも日本人が作ったなあ、的な感じの詩です。
五月水亭好昼眠。 五月水亭、昼眠に好(よ)ろし。
五月の水辺のあずまやは、昼寝するのにふさわしい。
初夏で暑いですからね。
緑叢如髪雨如烟。 緑叢は髪の如く、雨は烟の如し。
まわりの緑のくさむらは髪の毛のようにふさふさし、もやのような細雨がしとしとと降る。
ごろごろしているうちに、雨になってきたらしい。
それにしても、このおいら、
幾年抖擻人間事、 幾年 抖擻(とうそう)せしか、人間(じんかん)の事、
「抖」(とう)は「投げる」「掃う」、「擻」(そう)は「捨てる」。(なお、「花伝書」の中に、僧侶が世俗を逃れることを「抖擻」と言っています。念のため)
人間世界の俗事を投げ捨ててしまってから、もう何年になるであろうか。
活計得魚当酒銭。 活計は魚を得て酒銭に当つ。
日々の生計といえば、魚を釣り得たときには酒代にしてしまうばかりだ。
脱俗ですなあ。
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池大雅「無題」。
大雅堂・池貸成は享保八年(1723)、京都の生まれ、本姓は池野。
幼児に父を失い京都二条にて母と扇屋を営み、画を自学していたというが、少年時代から大和郡山藩の宿老・柳沢淇園に師事しかつその恩顧を得、後、与謝蕪村ら多くの文人と交わった。画人で歌人である妻の玉瀾女史との生活など、超俗のエピソードに事欠かない(が、ちょっと作り過ぎの感も)。安永五年(1776)卒。その人生にはむかしは少しアコガレた。けどムリだ。