平成27年4月13日(月)  目次へ  前回に戻る

あたまを丸めて出家するか・・・。

本日飲み会。肉じゃが美味かった。しかしまた明日が来る。なんまいだー。

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むかしむかし、あるところに伎児(音楽家)がおりまして、長者さまの前でいろんな曲を演奏した。

長者さまがお気に召したようでしたので、音楽家は、

「長者さま、音楽の演奏をしてお仕えしますので、ぜひ牛を一頭ください」

と持ちかけた。

長者さまはかなりの財産を為したお方でした。冷ややかに次のように言った。

爾能如是勤作伎楽、昼夜不息、満一歳者、我当与爾牛。

なんじ、よくかくの如く伎楽を勤作して昼夜いこわず、満一歳ならば、我まさになんじに牛を与えん。

「おまえが今やってくれたように、精根こめて音楽を演奏し、昼も夜も続けて満一年になったら、わしはおまえに牛を与えてもよいぞ」

断っているのと同じですね。

ところが、音楽家は言った。

能。

能くす。

「やれます」

そして付け加えた。

能聴不。

よく聴くやいなや。

「ちゃんと聴いてくれますか?」

長者さまは答えた。

能。

能くす。

「当たり前じゃろう」

さてさて、

伎児聞是歓喜、一心作楽、三日三夜未嘗休懈。

伎児これを聞きて歓喜し、一心に楽を作して、三日三夜いまだかつて休懈せず。

音楽家はこれを聞いて歓びあふれ、一心に音楽を演奏して、三日三晩の閨A少しも休むことが無かった。

三日三晩聞き続けた長者さまの方は、

厭聴已、即勅子弟、牽牛与之。

聴くを厭い已み、すなわち子弟に勅して、牛を牽いてこれに与えたり。

ついに聴くのに飽きてしまい、家の子に命じて牛を一頭牽き出して、音楽家に与えたのであった。

教訓―――

此喩行道作福者、不已劫数為遠、精勤弥篤、報至弥疾、不必皆経爾数劫也。

これ、道を行い福を作す者は、劫数遠しと為して已まず、精勤いよいよ篤ければ、報いよいよ疾(すみや)かに至り、必ずしもみな爾数劫を経ざるを喩するなり。

この話は、道を行い功徳を積もうとするものは、何万年という長い期間である「劫」(カルパ)の闖C行しなければならないと言われても断念せず、まじめに篤実でにやっていくならば、その善報がむくいられるまでの期間はどんどん短くなり、一般に必要とされるような何万年という期間にわたって修行する必要は無い、という喩え話である。

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後秦・鳩摩羅什訳「雑譬喩経」より。

マジメにやればすぐいいことある、というのです。ホントか? 二三日、最後にふんばってみるか。だが、これが期待どおりに行かなかったときにはいよいよ覚悟を決めるしかないかも・・・。

 

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