←山。
今日はシゴトのあと、かなりエライひとたちと御会食。緊張いたちまちた。終わって帰ってきて、やっと週末だ。
・・・と思ったが、まだ水曜日。絶望的。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
絶望したので、あたまを空っぽにして、山を見上げてみまちょー。
雲去山色青、 雲去れば山色青く、
雲住山色白。 雲住(とど)まれば山色白し。
雲が行ってしまえば山は青々と見えますが、
雲がかかっていると山は白く見えますじゃ。
去住雲不知、 去ると住まると、雲は知らず、
空山自成色。 空山自ずから色を成す。
行ってしまうもかかっているも雲の方は何も考えていない。
空っぽの山の方は、意識もせずに自分の色を見せているだけ。
はあ? 何を言っているんだ、このひとは? 深いこと言ってるような、もしかしたら何にも考えてないような・・・。
一応、肝冷斎(表千家)なりには次のように解してみました。
―――ニンゲンは苦しいと思ったり楽しいと思ったりします。
しかしほんとは、世界の本体(「空山」)は楽しい(「青色」)だけなんです。
そちらと「ワタシ」との閧ノある事象(「雲」)のせいで、こちらからは苦しく(「白」)なったり楽しく(「青」)なったりする。そして実は、事象(「雲」)はワタシにも世界の本体にも何の関係もなくふらふら動いているだけ。
さあ、このことが理解できたら、何を苦しむことがありましょうか。―――
・・・・・・・・・・・・・・・・・
清・王文清「偶見」(たまたま見る)(近人・陳友琴編「千首清人絶句」所収)。
そうか、シゴトなんか「雲」みたいなものだから、明日シゴトに行かなくてもいい、という教えなんでちゅね。ぜったい、ぜったい、そういうことなんでちゅよね。そうだ、と言ってくだちゃーい!
なお王文清は字・廷鑒、九溪と号す。湖南のひとで、雍正二年(1724)の進士、乾隆元年(1736)には博学鴻詞に挙げらる。官は宗人府主事(皇族管理府の課長)にとどまったが、齢九十余まで長生きしたひとだそうです。