(温泉にゆっくり入って塵の世の汚れを落としてきたいものだが)
岡本全勝さんから以前お借りした「仏典はどう漢訳されたのか」(船山徹 2013岩波書店)をようやく読了。勉強になった。
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そこで本日は伝説的には後漢の永平十年(紀元67)に月支国・迦葉摩騰(カーシュヤパ・マータンガ)及び竺法蘭が史上初めて訳した仏典、ということになっていますが絶対ウソ(上掲書p。22〜参照)と見抜かれている「仏説四十二章経」を読んでみましょう。
仏言、悪人害賢者、俯仰天而唾、唾不至天、還従己墜。
仏言う、悪人の賢者を害するは天を俯仰して唾し、唾天に至らず、また己によりて墜(お)つるなり。
ブッダがおっしゃいまちたー。
―――悪いやつが賢者をやっつけようとするのは、空を見上げて空に向かって唾を吐くのと同じで、唾は空まで飛んで行くはず無くて、自分の上に落ちてくるのじゃぞ。
あるいは
逆風揚塵、塵不至彼、還坌己身。
逆風塵を揚ぐるに、塵彼しこに至らず、また己の身を坌(よご)す。
―――向かい風が土埃を捲き上げて、あっちのやつがかぶるかと思ったらこっちに飛んできて自分がかぶった、みたいなもんじゃ。
賢不可毀、禍必滅己。
賢は毀つべからず、禍必ず己を滅ぼさん。
―――賢者を攻撃してはいかんぞよ。必ず自分に悪いことがかぶってくるからのう。
以上、第八章。賢者さまをやっつけようとちてはいけませんよー。
仏言、人懐愛欲、不見道者、譬如澄水、致手攬之、衆人共臨、無有覩其影者。
仏言う、人、愛欲を懐けば道を見ず、というは、たとえば澄水の手のこれを攬するを致さば、衆人ともに臨むといえども、その影を覩(み)る者ある無きがごとし。
ブッダがおっしゃいまちたー。
―――ひとが愛欲の思いを持つと真理を見ることができなくなる、というが、それは、たとえば澄んだ水も手を入れてかき混ぜれば(泥で濁って)、みんなで覗き込んでも自分たちの姿が映らない、というのと同じことなんじゃな。
人以愛欲交錯、心中濁興、故不見道。
人、愛欲を以て交錯せば、心中に濁り興る、故に道を見ざるなり。
―――ひとが愛欲の思いを持って他者と交際していると、心の中に濁りが湧いてくる。だから真理が見えなくなるんじゃ。
汝等沙門、当捨愛欲。愛欲垢尽、道可見矣。
なんじら沙門、まさに愛欲を捨つべし。愛欲の垢尽きなば、道を見るべきなり。
―――おまえたち修行者は、愛欲の思いを捨てねばならぬ。愛欲の垢がすべて磨き落とされたら、真理が見えてくるであろう。
以上、第十七章。愛欲無くさないとね。
仏言、財色於人、人之不捨、譬如刀刃有蜜。
仏言う、財色の人における、人のこれを捨てざるは、譬うれば刀刃の蜜有るが如し。
ブッダがおっしゃいまちたー。
―――ひとにとって、財産や彼氏・彼女というものは、これを捨ててしまわないと、たとえば刀の刃にはちみつを塗ったような状態になるのじゃぞ。
それはどんな状態でちゅか?
不足一餐之美、小児舐之、則有割舌之患。
一餐の美にも足らず、小児これを舐むればすなわち割舌の患有り。
―――食べる気にもならないものであるが、何も知らないがきんちょが「わーい、おいちちょう」と言って舐めると、ぶち、と舌が切り裂かれてしまうことになろう。
以上、第二十二章。そ、そうでちゅか。おいちちょうだけど舐めるのやめまーちゅ。
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などすっごくタメになるコトバばかりです。うーん、なんかいかにもチャイナ土着の賢者が言うコトバっぽい。「道」という言葉の使い方とか。ほんとにブッダが言ったことなのかな? このようにチャイナのひとの耳に聞きやすくアタマにわかりやすいコトバが集められているので、「仏説四十二章経」は宋代以降は禅寺に入ったばかりの初心者がまず読まないといけない経典とされていたそうです。
それにしても四字句が多いですね。