「おいらも南に帰ろうかなあ・・・」
本日は北海道へ帰るひとの歓送会。
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それでは送別の詩を一首。
花映垂楊漢水清、 花は垂楊に映じて漢水清く、
微風林裏一枝軽。 微風、林裏に一枝軽し。
花の赤は枝垂れ柳の緑に映え、その下を漢水(長江に注ぐ江南の川である)は清らかに流れる。
そよ風の吹く林の中では、風に吹かれた枝が軽やかに動いている。
という春の候。
おまえさんは北に帰って行く。
即今江北還如此、 即今、江北もまたかくのごとからん、
愁殺江南離別情。 愁殺す、江南離別の情。
いまは江の北の方もこのような春景色であろう。
江南ではおいらは別れの悲しみに耐えきれないでいるのだが。
唐・常建「送宇文六」(宇文六を送る)。
送別会などでの挨拶の詩ですので、文字面は悲痛ですが本心的には軽い感じだと思います。ほんとに悲痛だとルールの厳しい七絶なんかで詩を作ったりはしないでしょうからね。(なお、解釈上、後の二句は、江の北の方に残ったおいらが、江の南に旅立って行ったおまえさんの離別の情を思いやっている、と読むこともでき、その方が通説っぽいですが、ここでは北海道に帰るひとを送ったので、わざと江北に行ったひとを思いやった詩として読んだ。うっしっし)
もう一首。
荊呉相接水為郷。 荊と呉、あい接して水、郷と為る。
君去春江正E茫。 君去りて春江はまさにE茫(びょうぼう)たり。
荊(長江中流域)と呉(長江下流域)とはお互いに接していて、水路の多い地帯であるが、
おまえさんが行ってしまった後の春の川は、ほんとうに一面に水の世界となった。
融雪などにより春になって水が出ているのでしょう。今は三峡ダム出来てるからそうでもないのでしょうけれども。
日暮孤舟何処泊、 日暮れて孤舟いずこに泊せん、
天涯一望断人腸。 天涯一望ひとのはらわたを断つ。
日が暮れてきたが、おまえさんを乗せた小舟はどこのあたりで舫っておるのだろうか。
夕暮れの天と水の交わる果てまで見わたして(もおまえさんの舟は見えないので)、おいらはやるせなくってはらわたがちぎれるぐらいだぜ。
唐・孟浩然「送杜十二之江南」(杜十二の江南に之くを送る)。
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「唐詩選」巻七から。
ところで、今日は最近のことなど話しているうちに「もしかしておまえさん、肝冷斎ではないか?」と見破られそうになりまちた。しかしおいらの正体を知られるわけにはまいりません。
「な、なにを言っているんでちゅか、おいらはただのコドモでちゅよー」
と言って誤魔化しきった(と思う)。ふう。冷や汗が出るぜ。