平成27年1月14日(水)  目次へ  前回に戻る

だんだん近づいてくるよー

―――ぶくぶく。温暖斎です。黒潮に乗って北東方向に向かっています。もうすぐ着きますよ、みなさんのところに。ひっひっひっひっひ・・・

ほんとうでしょうか? この寒い中、海をわたってやってこれるのか?

・・・・・・・・・・・・・

狐狸之怪、雀鼠之魅、不能幻明鏡之鑑者明鏡無心之故也。

狐・狸の怪、雀・鼠の魅も明鏡の鑑を幻ずるあたわざるは、明鏡無心の故なり。

キツネやタヌキが化けたり、スズメやネズミの精が悪さをしても、ぴかぴかの鏡に映されるとその正体を現してしまう、というのは、ぴかぴかの鏡には意志というものが無いから、である。

魔物の正体を映し出す鏡のことを一般に「照魔鏡」といいますが、実は「照魔鏡」には特別な製法があるわけではなく、普通の鏡にその能力が具わっているのだといわれます。

「ウソだ!」

と言い出すひとがいるといけないのでちゃんと古典を引用しておきますと、晋・葛洪「抱朴子」内篇に曰く、

万物之老者其精皆能仮託人形以眩人。於鏡中不能易其真形。

万物の老いたる者はその精みなよく人形に仮託して以て人を眩(まど)わす。鏡中においてはその真形を易(か)うるを得ず。

どんなものでも年を経ると、その精が人間の形をとってひとを惑わすことができるようになるものである。しかしながら、鏡の中ではそのもののホントウの姿を誤魔化すことはできないのである。

なるほど。

是以入山道士以明鏡径九寸、懸於背。有老魅未敢近。或後来者視鏡中、其是仙人及山中好神者、鏡中故如人形。

ここを以て、入山の道士は明鏡の径九寸なるを以て背に懸く。老魅有りともあえて近づかず。あるいは後来者、鏡中に視るに、それこれ仙人及び山中の好神なる者は、鏡中にもとの人形の如し。

そこで、山中に籠ろうとする道士は、直径三十センチ足らずのぴかぴかの鏡を必ず背中に懸けて、背後から近づくモノの姿がそれに映るようにするのである。年を経て化けた妖怪たちも(そこに自分の正体が映っているので)背後から近づくことができない。後ろから近付いて来る者を鏡に映してみたとき、それが仙人さまや山中のいい精霊であれば人間の形のままで映る(ので見分けることができる)のである。

道士が籠るような山中には普通の人間はおらず、「老魅」か「仙人」か「山中のいい精霊」(←この言い方は「彦根のいいネコ」みたいで気に入った)ぐらいしかいない、ということもよくわかりますね。

閑話休題。

このことから理解されると思いますが、

虚空無心而無所不知、昊天無心而万象自馳。行師無状而敵不敢欺、大人無慮而元精自帰。

虚空は無心にして知らざるところ無く、昊天は無心にして万象自ずから馳す。行師は無状にして敵あえて欺かず、大人は無慮にして元精自ずから帰す。

からっぽな空虚には意志が無いので、かえってすべてのことを知覚することができるし、明るい天には意志が無いので、あらゆる現象が放っておいても進んでいくのである。軍隊が統一した行動を見せなければ敵はこれをだまし討ちにする機会を持てないし、大いなる人物はモノを考えたりしないから、本質的な元気が自然と戻ってくる(ので、永遠の命を保つことができる)。

すなわち、

能師於無者無所不之。

よく無において師とする者は、之(ゆ)かざるところ無し。

「〜が無い」という状態を大切にすることができるひとには、限界など無いのである。

・・・・・・・・・・・・・

五代・譚峭「斉丘子」より。

結論。温暖斎は無知・無自覚・無気力・無方向・無定見など「無」を大切にしていますから、限界がありません。ほんとに南の島から黒潮に乗って、ゴジラのようにわれらの文明社会に近づきつつあるのカモ。

ちなみに、ほかのことは忘れてもいいのですが、

「万物の老いたる者はその精みなよく人形に仮託して以て人を眩(まど)わす」

(どんなものでも年を経ると、その精が人間の形をとってひとを惑わすことができるようになるものである。)

このテーゼだけは覚えておいてください。ぜったい試験に出ます。もしかしたらセンター試験にも出るカモ。

 

表紙へ 次へ