平成27年1月9日(金)  目次へ  前回に戻る

(心の虚なるやつは何するかわかりませんよ。)

やっと週末。この一週間いろいろ失敗してへっこんだ。今年はあと50週間ぐらいまだへっこむのか、と思ったらココロが枯れ木か冷え切った灰のように虚無となってまいりました。かなり重大な状況か。

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はい。

そこで、今日はコドモ先生に来ていただきました。コドモ先生の教えを承けます。

「先生、無心になる、というのはスバラシイことではないのでしょうか、ダメなのでしょうか」

「おっほん。答えて進ぜまちゅぞよ」

コドモ先生はつけひげをひねりながらおっしゃいました。

無心便不是、唯当言無私心。 ・・・・@

「無心」すなわち是ならず、ただまさに「私心無し」と言うべし。

「心が無くなる」では正解ではないのでちゅ。「私心が無くなる」ようにする、というのが正解なのでちゅ!

と。

「わかりまちたか?」

「す、少しは・・・」

「ではもう少し敷衍いたちまちょー」・・・・A

苟欲無心、則必一切絶滅思慮、槁木死灰而後可。豈理也哉。

かりにも無心たらんと欲せば、すなわち必ず思慮を一切絶滅し、槁木死灰たりて後可なり。あに理ならんや。

もしも「心が無くなる」状態になろうとするならば、あらゆる思念をすべて絶滅させ、枯れた木や冷えた灰のようになってやっとオーケーになるのでちゅ。そんなことありえまちゅか?

故聖人未嘗無心、特是心之所存所用者、無非本天理之公、而絶乎人欲之私耳。

故に聖人いまだかつて無心ならず、特(ただ)にこれ、心の存するところ用いるところは、天理の公にもとづかざる無く、而して人欲の私を絶するにあるのみ。

だから、(孔子をはじめ、いにしえの儒学の)聖人ちゃんたちは、「心が無くなる」ようなことにはならなかったのでちゅ。聖人たちの心の所在や用いる対象は、ただただ、すべて「公正な真理」を基盤とし、「私的な利欲」とは無縁のもの、であったのでちゅ。

「わかりまちたか?」

「だ、だいたい・・・」

「ではもう少し敷衍いたちまちょー」・・・・B

心者身之主宰、具衆理而応万事者也。此身一刻無主、則官骸皆為虚器。遇事一刻無主、則動作皆違物則。

心なるものは身の主宰、衆理を具えて万事に応ずるものなり。この身一刻も主無ければ、すなわち官骸みな虚器なり。事に遇いて一刻主無ければ動作みな物則に違う。

心というのはこの身の主宰者で、もろもろの理をそのうちに具備して、あらゆるできごとに対応するモノなんでちゅな。この身に少しの闔蜊ノ者が無ければ臓器も骨格もうつろなガラクタになってちまいまちゅ。何かの出来事に対応しようとしても、少しの閧燻蜊ノ者が無いのなら、対応はすべて当て外れのものとなりまちょう。

如之何其無心。

これを如何にしてそれ心無からん。

それなのにどうやったら「心が無い」状態になれるんでちゅか!

「無心」などと言い出すのは、問うまでもなく禅のやつらでちゅ、仏教のやつらでちゅよ。

「無心」だと滞りのないイキイキしたものになる―――ような気がするかも知れませんが、一言でも心について「無」と言い出したら、それはもう聖人たちの学問ではなく仏教のやつらなのでちゅーーー!

仏教のやつらは「心意無し」とか「感受したり想念を起こしたりすること無かれ」とか言うのでちゅ。しかしながら、おいらたち聖人の学問は

言心便有性、便能純乎天理、廓然太公、便能順応乎物、而尽此心之用。

心にはすなわち性有り、すなわちよく天理に純にして廓然太公たり、すなわちよく物に順応してこの心の用を尽くす、と言う。

「心」には(天の理の部分と人の情の部分があり、その理の部分である)「性」がある、という言い方をいたちまちゅね。また「心」は天の理に純化して、からり広々とはなはだ公正になれる、と言い、「心」は対象物にうまく反応することでその働きを完成させるのだ、とも言いまちゅ。

しかしながら、

何嘗多心。亦何得言無心。

何ぞかつて「多心」ならん。また何ぞ得て「無心」と言わん。

「心をたくさんあらせよ」と言うことはありえませんし、「心を無くせ」ということもありえないのでちゅ。

ただ「私心を無くせ」と言うのみなのでっちゅ!

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「近思録」(宋・朱晦庵・呂東莱編)巻二「為学」より(第七十六則)。@は程伊川先生のお言葉ですので、あまりにコワいのでコドモ先生に解説をお願いしましたが、コドモ先生でさえ最後の方は興奮してしまいましたね。Aは南宋の平巌先生・葉采「近思録集解」の説明でちて、Bは清の敬庵先生・張伯行「近思録集解」(Aと同名ですね)の説明でございまちた。

宋学(朱子学)の用語がバンバン出てきてワケがわからないように感じるかも知れませんが、逆にそれに慣れてしまいますと「ああ、またか」というぐらい「常識的」なことを言っているので、これぐらいわかっても科挙試験合格はまだまだ遠い。です。しかしこんなのが「わかる」ようになったら人生おしまい、もっと有意義に生きた方がいい、ような気もいたちまちゅよ。

では、寒いし精神へっこんでいるので明日から無期限で休みます。さようなら。(しかしその閧ノ温暖斎が活動するかも・・・。)

 

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