「覆面の下の表情を見破られている?そんなはずは・・・」
明日はまた覆面つけないといけないから、本当のことは今日言っておかないと・・・。
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ところで、李赤という者がいた。
文学を修めていたが、それで身を立てるほどの能力も無く、定職のないあぶれ者となった。自身でいうには、
吾善為歌詩、詩類李白、故自号曰李赤。
吾、善く歌詩を為(つく)り、詩は李白に類す、故に自ら号して李赤と曰えり。
わしは詩歌をうまく作る。その詩は李白によく似ているので、わしは李赤という名前にしたのだ。
と。ただ、彼の作ったという詩を見聞きした者は誰もいない。
職を探しに、友人とともに宣州に出向いてその友人の縁続きのひとの家にしばらく世話になっていたときのことだ。
ある晩、李赤がまるで女性と会話をしているように振る舞っているところへ、友人が帰ってきた。友人は李赤がふざけているのだと思い、適当に話を合わせていたところ、赤が言うには、
是媒我也、吾将娶乎是。
これ、我に媒せるなり、吾これを娶らんとす。
「このオンナは、わしに正式に嫁入りを申し込んで来たのじゃ。わしはこのオンナと結婚するぞ」
と。
友人、笑いながら答えて曰く、
足下妻固無恙、太夫人在堂、安得有是。豈狂易病惑耶。
足下、妻もとより恙(つつが)無く、太夫人堂にあり、いずくんぞ是有るを得んや。あに狂易し病惑せしや。
「おまえさんは女房はお元気だし、おふくろさんも健在であられるじゃないか。どうしてそんな勝手なことができるんだ? アタマおかしくなってんじゃないの?」
ところがしばらくすると、李赤はまた女と何か会話をはじめ、ついで手ぬぐいを手にすると、その首に巻き付けた。
赤両手助之、舌尽出。
赤、両手にてこれを助け、舌ことごとく出づ。
赤は両手で(女が手ぬぐいで赤の)首を絞めるのを手伝うかのように手ぬぐいを引っ張り、ついに窒息してその舌がびよよ〜んと飛び出してきた。
「おい、何をしているんだ!」
其友号而救之。
その友、号(さけ)びてこれを救う。
友人は大声をあげて手ぬぐいを奪い取った。
李赤は激しく咳き込んだあと、しばらくして呼吸を整えると、怒りもあらわに
爾無道、吾将従吾妻、爾何為者。
爾無道なり、吾、吾が妻に従わんとせしに、爾何を為す者ぞ。
「おぬしはなんとひどい男じゃ。わしはわしの妻のところに行こうとしただけなのに、おぬしは何でそれを邪魔するのか」
それから机に向かって何か書き物をし、その紙を丸めたものの封をせず、しばらく考えてまた何かを書きつけて、今度は拡げたままで封書に入れて封をした。
それが終わってから、
如厠。
厠へ如(ゆ)けり。
便所へ行った。
友人、急ぎ封を剥いで紙を見るに、何とも不思議な文字のようなものが書きつけてあるばかりで、どう読んでもまったく意味を為さない。
友人眉をひそめてこれを見ていたが、ふと我に返って、李赤がいつまで経っても便所から帰って来ないのが心配になった。
そこで便所に行ってみると、李赤が
抱甕詭笑。
甕を抱き詭笑す。
便器を抱きかかえて何やら笑っている。
のが目に入った。
「おい、何をしている」
声をかけると李赤は、
側視、勢且下。
側視し、勢いまさに下らんとす。
友人が来たのを横目で認めるや、あわてて肥溜めの中に飛び込もうとした。
そこで友人は飛びついて、便所から引きずりだしたのであった。
引きずりだされた李赤はまた大いに怒り、
吾已昇堂面吾妻。吾妻之容、世固無有、堂之飾、宏大富麗、椒蘭之気、油然而起。顧視爾之世猶溷厠也。
吾すでに堂に昇りて吾が妻に面せり。吾が妻の容、世にもとより有る無く、堂の飾は宏大にして富麗、椒蘭の気、油然として起こる。顧みて爾の世を視るに、溷厠のごときなり。
「わしは今、もう部屋に入ってわしの嫁と抱き合っていたのだぞ。わしの嫁のかんばせはこの世に二人といない美しさ、部屋は広く大きく、装飾は華麗、香ある木材や花の香りがぷんぷんしていた。こちらの、おぬしらの汚らわしい世の中に戻されるとは―――、まるでここは便所か肥溜めの中ではないのか!」
「なるほど・・・」
友人はようやく李赤に憑りついたのは「厠神」ではないかと気づいた。
「厠神は美しいオンナの姿をしているというが、それか・・・」
それから
聚僕謀曰、亟去是厠。遂行宿三十里。
僕を聚めて謀りて曰く、「しばらくこの厠を去らん」と。ついに行きて三十里に宿す。
使用人たちを集めて相談し、「とにかくこの便所の近くにいない方がいいだろう」ということになって、三十里(20キロ弱)離れたところに連れて行って、そこに泊まることにした。
翌晩。
赤、又如厠。
赤、また厠に如く。
李赤は、また便所に行った。
久、従之、且復入矣。
久しくしてこれに従うに、まさにまた入らんとせり。
しばらくして便所に追いかけてみると、またちょうど便器から体を乗り入れて、肥溜めに入り込もうとしているときであった。
「いかん!」
持出、洗其汚、衆環之以至旦。
持ちて出だし、その汚を洗い、衆これを環りて以て旦に至る。
足をつかんで引きずり出した。汚物が体についていたのを洗って、みんなで赤を取り囲んで、そのまま朝まで見張っていた。
翌日はさらに場所を移して他の県にまで離れてみたところ、どうやら正気を取り戻したように見えた。
その晩、その県では役人たちが宴会をはじめていた。その中には赤たちと以前からの顔見知りの者もいる。
赤は友人に
「せっかくだからご相伴していこうではないか」
と促して、宴席に着いた。
酒行、友已飲而顧赤、則已去矣。
酒行われ、友すでに飲みて赤を顧みるに、すなわちすでに去れり。
酒が注がれ、友人が一杯飲んで李赤の方を振り向いてみると―――もう彼はそこにいなかった。
「しまった!」
走従之。
走りてこれに従う。
便所の場所を聞いて、駆けつけた。
すると、
赤入厠、挙其床捍門、門堅不可入、其友叫且言之、衆発墻以入。
赤、厠に入り、その床を挙げて門を捍し、門堅くして入るべからざれば、その友叫びてまさにこれを言い、衆、墻を発して以て入る。
李赤はちょうど便所に入り込んだところで、内側から便所の床を扉に立てかけてつっかえ棒にした。扉はどれだけ押しても開かない。そこで友人はひとを呼んで状況を話したので、集まったひとびとは便所の壁を剥ぎ取ってそこから中に入ったのであった。
赤之面陥不潔者半矣。又出洗之。
赤の面、不潔に陥るもの半ばなり。また出だしてこれを洗う。
赤の顔は肥溜めの中の汚物に半分入っていたが、また引きずりだして洗い流した。
事情を知った役人たちは県のお抱えの呪術師を呼んで来て李赤の前で祈らせたりしたが、李赤はにやにやしながらそれを見つめるばかりであった。
そして、
夜半、守者怠、皆睡。及覚、更呼而求之、見其足于厠外。赤死久矣。
夜半、守者怠りてみな睡る。覚むるに及んでさらに呼びてこれを求むに、その足の厠の外にあるを見る。赤死して久しきなり。
深夜。見張りの者たちは疲れて、ついついうとうとしてしまった。
「あ」
と目覚めたときにはもう赤の姿は無く、大声で呼びながら探してみたが、その足だけが便器からはみ出しているのを見つけたときには、もう赤が肥溜めの中で窒息死してからだいぶん経っていた。
翌日、友人はいたしかたもなく、
独得尸帰其家。
独り尸を得てその家に帰れり。
遺体だけを李赤の家まで運んで帰ってきたのであった。
ところで、家に帰ってから、李赤の持ち物の中から先だっての封書を出して見てみたところ、今度は普通の文字が書かれていて、読めた。内容はその母と妻に対する遺書で、
其言辞猶人也。
その言辞なお人のごときなり。
そのことばづかいなど、きちんとしたものであった。
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柳先生曰く―――
李赤の事件は虚偽ではない。あるいは心の病であったのか、あるいは本当に厠神に連れ去られたのか。李赤の名は読書人たちの中ではそこそこ知られていたのであるが、この事件の前から奇人とされていたわけではない。ひとたび妖怪に惑わされるや、この世を肥溜めだと言い、肥溜めこそ素晴らしい世界だと言うに至ったのである。
ところで―――
今世皆知笑赤之惑也、及至是非取与向背決不為赤者、幾何人耶。
今の世、みな赤の惑えるを笑うを知れども、是非・取与・向背に至るに及んで、決して赤を為さざる者、幾何(いくばく)人ならんや。
現実の世の中のひとは、みんな赤が惑わされたのを笑っている。けれど、正しいか正しくないか、受け取るべきか与えるべきか、味方するのか裏切るのか、これらの判断の際に、決して赤のように惑わされない、間違ったことはしない、というひとがほんとうはどれぐらいいるものであろうか。
あなたがたも間違った価値判断におちいているのではないか。
反修而身、無以欲利好悪遷其神不返、則幸矣。又何暇赤之笑哉。
反ってなんじの身を修むるに、欲利好悪を以てその神の返らざること無ければ、すなわち幸いなり。また何ぞ赤をこれ笑うにいとまあらんや。
よくよく自分の身の上にあてて考えてみたとき、利益を得ようとかあの人が好きだ嫌いだということにはまりこんでしまって、その精神がまともに戻らないようなことが無いならば、それだけでもシアワセなことである。赤のことを笑っているようなゆとりがあるとは思えない。
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唐・柳宗元「李赤伝」(「柳河東集」巻十七所収)。
あーあ、ほんとのこと言っちゃった。ほんとのこと言われたから、みなさんかなり悩んでしまっているでしょうね。え? 悩んでない? みなさんが頭突っ込んでる方の世界が肥溜めだってことに気づいてないってえ?
なお、河東先生・柳宗元(字・子厚)は
孤舟蓑笠の翁、
独り釣る寒江の雪。
などの隠者めいた詩で有名で、我が国では山水詩人として好感しているひとも多いようですが、中唐期に急進的な改革を主導し、政治的な揺り戻しの中で左遷されたかなり強烈な人物です。彼らは貴族制の打破のために皇帝権力を利用したクーデタを画策していたらしく、同じような方向性を持ちながらも穏健な方法を模索した元稹や白楽天、あるいは保守派と手を結んだ韓愈一派に比べて、「極左」ともいうべき立場にあった。同じ党派に属した劉禹錫が左遷され政治的敗北を喫した後に転向したのに比して、子厚はとうとうその立場を変えなかったのである。