「晴れても曇っても雨が降らないなら同じカモ」
眠い。寒い。はやく寝ます。
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寝る前に、今日も大塩中斎先生のおことばを聞きます。
その日は、
昨陰而今晴。
昨は陰にして今は晴れたり。
昨日は曇りで、今日は晴れ。
という日であった。中斎先生は弟子たちと庭先を散歩していたが、突然、
仰天曰、今即陰、而昨乃晴也哉。
天を仰いで曰く、「今すなわち陰、而して昨はすなわち晴れなるかな」と。
空を見上げておっしゃった。
「今日は曇っているなあ。一方、昨日は晴れておったなあ」
弟子は驚きまして、曰く
先生豈狂矣乎。今晴而反謂之陰、昨陰而反謂之晴、何也。
先生あに狂せるか。今晴れたるに反ってこれを陰と謂い、昨は陰なるに反ってこれを晴れと謂う、何ぞや。
「先生、とうとうほんとにおかしくなってしまわれたのですか。今日は晴れているのにそれを反対に曇っているとおっしゃり、昨日は曇っていたのにそれを反対に晴れていたとおっしゃる。どういうことでしょうか」
先生曰く、
此非爾輩所知也。
これ、爾輩の知るところにあらざるなり。
「これはおまえたちの理解できることではあるまい」
「はあ?」
「へえ?」
「ほお?」
「・・・・・・・・」
弟子たちがほんとに理解しないようなので、先生はかわいそうに思ったのでございましょうか、解説した。
「よいかな?
今之晴、特散為耳。昨之陰、只聚焉耳。今雖散也、其所以聚者、亦充塞乎太虚中矣。昨雖聚也、其所以散者、亦徧布乎太虚中矣。是故雖聚必散矣。故曰昨晴、雖散必聚矣、故曰今陰。言奇而非奇、是常理也。
今の晴れたるは特に散じて為すのみ。昨の陰するはただ聚れるのみ。今散ずるなりといえどもその聚まるゆえんのものはまた太虚中に充塞す。昨は聚まれりといえどもその散ずるゆえんのものはまた太虚中に徧布せり。このゆえに聚まれりといえども必ず散ず。故に曰く、昨は晴れたりと。散ずるといえども必ず聚まる。故に曰く、今は陰たりと。奇を言うも奇にあらず、これ常理なり。
今日は晴れている。この晴れは、雲が散ってしまったから晴れているだけだ。昨日は曇っていた。雲が集まっていたから曇っていただけだ。
今日は雲が散っているからといっても、雲が集まる理由は、この大空の中には満ち満ちているのである。昨日は雲が集まっていたといっても、雲が散ってしまう理由は、やはりこの大空中に広まり存在しているのである。
だから、集まっていたら必ず次は散らばるわけで、昨日は(曇っていたからこそ雲が散らばって)晴れていたなあ、と言ったのだ。また今日は(雲が散らばって晴れているからこそやがて雲が集まって)曇りなのだなあ、と言ったわけ。
おかしなことを言っているようだが、おかしなことではない。これは当たり前のことを言っているのだぞ」
弟子たちの反応は
「はあ・・・」「へえ・・・」「ほお・・・」
と芳しくない。
そこで付け加えて言った。
「おまえたちにはわかりづらいことかも知れんが、
如能了悟之、則未発已発之理亦一般、而当知戒懼慎独之為実功也夫。
もしよくこれを悟り了せば、未発已発の理もまた一般、しかしてまさに戒懼・慎独の実功たるを知るべきかな。
もしここのところをよく理解し終えたなら、「中庸」にいう「まだ意識化していないとき」と「すでに意識化されたとき」の違いについてもたやすくわかることとなろう。同じく「中庸」にいう「誰も見ていないときにこそ戒め恐れなければならない」あるいは「ひとりだけいるときに緊張していなければならない」という状況での具体的なやり方についても知ることができるであろう。
が、いずれにせよまだおまえたちにはわかる状況ではない」
と。
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本朝・大塩中斎「洗心洞劄記」上・152章より。
「ホントにマジメにそう言っているのか?」という疑問もわいてきますが、なにしろ十何日も眠らないことある、というひとの言うことですから否定するわけにもいきますまい。
今日はちょっと事件もあったので、もう寝ます。