平成26年12月1日(月)  目次へ  前回に戻る

 

とうとう12月になってしまいました。新暦とはいえ。

新暦とはいえ月が替わって月立ちとなりましたので、何か新しい書物でも読んでみます。

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この書はだいぶん前のひとではありますが、あるテロリストが書いたものなので、一時期は御禁制になっていたものです。

吾以為常人熟睡時反生、而明覚時反死矣。

吾、以て為すに、常人は熟睡時に反って生き、明覚時に反って死せり、と。

わしは、一般人というのは、熟睡しているときには実は生きており、起きているときには実は死んでいる、と思っている。

「先生、それはどういうことですか。わたくし肝冷斎も寝ているときはシアワセで起きて会社に行くと死んだようになりますが、そういう意味では・・・ありませんよね」

熟睡時身雖如死、然心無一念矣。心無一念則心徳全焉。吾故以為反生。

熟睡時は身死するが如しといえども、然るに心に一念無し。心に一念無ければ心徳全きなり。吾、故に以て反って生きると為すなり。

熟睡しているときには身体は死んでいるのと同じ状況だが、精神には考えが少しも無い。精神に考えが無ければ、精神の在り方としては完全なのである。わしは、だから、実は生きているのだ、と思っているのである。

一方、

明覚時身固生活、而心起雑念矣。心起雑念則心徳亡焉。吾故以為反死。

明覚時は身はもとより生活するも、心は雑念を起こす。心雑念を起こせば心徳亡(な)きなり。吾、故に以て反って死せりと為すなり。

起きているときはもちろん身体的には活動しているわけであるが、精神にはいらんことをたくさん考えているわけで、精神に要らんことを考えているならば、精神の在り方としてはおしまいである。わしは、だから、実は死んでいるのだ、と思っているのである。

「はあ。なるほど、そういうことですか・・・」

因思人学而不到覚時如睡時無一念之地、則豈大学之定静云乎哉。豈周子之無極而太極云乎哉。

因りて思うに、人学んで覚時に睡時の一念無きの地に到らざれば、すなわちあに「大学」の「定静」と云わんや。あに周子の「無極にして太極」と云わんや。

お。反語表現だ。

そこでわしは思うのだが、ニンゲンは勉強して努力して、起きているときにも、眠っているときと同様の雑念の無い状態になれるならば、それこそが「大学」のいう「定」や「静」の状態@であるといえよう。周先生のおっしゃった「絶対無こそ絶対存在」という状態Aであるといえよう。

@については、

「大学」首章

知止而後能定。定而後能静。

止まるを知りて後よく定まる。定まりて後よく静なり。

ニンゲンとして止どまるべきところを理解すれば、そこに止まって安定することができるようになる。安定することができれば、平静にいることができるようになる。

とある、そのような状態。

Aについては、北宋の儒学者で、いわゆる宋学の創始者とされる周濂溪が、道士たちの使っていた図を用いながら世界の生成の仕組みと人倫の在り方について説明した「太極図説」の中で、

無極而太極。

無極にして太極。

絶対なる無が、そのまま絶対なる唯一の存在なのである。

その唯一の存在が動くと、「陰」と「陽」となり、「陰」と「陽」が交わって、万物が生じるのだ・・・・。

と述べているそんな世界創生の状態をいう。

要するに求めるべきすばらしい境地、安心(精神的に安定し)立命(自分の現世で為すべきことを為す)の境地に至れるのである、というのである。

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○○○○「洗心洞劄記」上・第49章より。

さて、このひとは誰でしょうか。

このひとの少し後輩に当たり、幕末から明治初期にかけて但馬の青溪書院において多くの有為の才を育て、「但馬聖人」とまで謳われた草庵・池田禎蔵「聞き書き」によれば(勝手に現代語訳しています)、

○○○○は平生、精神気魄極めて盛んなひとであった。

時々、昼も夜も寝ないでいること十余日にもなることがあったが、精神は少しも乱れなかった。

日常には酒を飲まなかったが、飲めばすなわち一斗半(27リットルである!)を飲み尽くして、少しも酔ったふうはなかった。

メシは一度に十杯ぐらい

所用で出かけると一日に三十里(120キロメートル!)歩いた。

朝は八つ時(午前二時ぐらい)に起きて天体の動きを観察し、門人を呼んで議論しあった。講義の閧ヘ、冬の日であっても戸を開けたままで座っていたから、(寒風が吹きこんで)門人たちはみな耐えられなかったが、中斎はそのままで意に介さなかった。・・・家にいると賓客が後を絶たずにやってきたし、門人に自ら武技を教えることもあって、一日中多忙であった。それでもその読書該博なることはこのようであった。

抑(そもそ)も又た怪しむべきなり。

(これらを考えてみれば、もともととてつもないことを仕出かすのではないかと思わねばならなかったのだ。)

というすごい人だったんですよ、中斎・大塩平八郎は。「メシは一度に十杯ぐらい」です。三食食べたら三十杯。天保飢饉の際に大坂奉行所がコメの出し入れを間違って大坂市中の米価が暴騰してしまったのに怒ってテロるのもムベなるかな。・・・あ、いけね、答え言っちゃった。

 

※念のため附言しておきますが、実際は、大塩中斎は自分が腹いっぱいメシが食えなかったから叛乱を起こした、のではありません。いろんな献策もしたけど容れられず、居ても立ってもおれなくなって「良知を致し」て「知行合一」して立ち上がったのです。

 

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