楽しく生きているうちに、ほんとうに明日はもう月曜日になってきました。うわー。
すべてを捨てて逃げ出そう。旅に出よう。
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以下は魏・曹子建(曹操の息子の陳思王・曹植のことです)の旅に出るひとの詩(「楽府」(がふ))です。変な詩ですね。
門有万里客。 門に万里の客有り。
問君何郷人。 君に問う、いずれの郷の人ぞ。
門の前に遠いところに出かける旅人がいた。
おまえさんに訊ねるぞ、「いったいどこの生まれなのだ?」
すると、旅人は
褰裳起従之、 裳を褰(かか)げて起ちてこれに従い、
果得心所親。 果たして心の親しむところを得たり。
スカートのすそをかかげて立ち上がって、わしの方に近づいてきて、
「やっと親しいと思えるひとにお会いできましたわい」
と言った。
スカートをはいた男の人が「親しむところを得たり」と近づいてきた、と想像すると変な気分になりますが、当時男の人がスカートをはくのは普通なので変な気分になってはいけません。
そして、
挽衣対我泣、 衣を挽きて我に対して泣き、
太息前自陳。 太息して前(すす)みて自ら陳(の)ぶ。
上着を引っ張りながらわしに向かって泣いて、
おおいにためいきをついてにじり寄ると、自ら言った―――
さらににじり寄ってきて、息吹きかけるように熱くコトバをささやいてきました。
その言うところは
本是朔方士、 もとこれ朔方の士、
今為呉越民。 今は呉越の民と為る。
行行将復行、 行き行きてまさにまた行かんとし、
去去適西秦。 去(ゆ)き去きて西秦に適(ゆ)く。
わたしはもともと華北の生まれ、
今は長江河口部の呉越に住んでおりますが、
旅から旅への境涯で、今度また旅に出て、
旅から旅行くそのさきは、西の方、秦の地方。
―――これでおしまい。
何で行くのかとか、それを聞いて曹子建がどう思ったかとか、一切記載無し。
後世の注釈家(陳祚明)がいうには、
徒封奔走、或是自況、或他王亦然。直叙不加一語、悲情深至。
封を徒(うつ)りて奔走するは、あるいはこれ自況なるか、あるいは他王また然るか。直叙して一語を加えざるも悲情深く至る。
領地を変えられたので走り回らねばならない。もしかしたら曹植自身のことなのか、あるいは他の諸侯のことなのか。とにかく最低限のことを述べるばかりで、感想めいたものが一語も無いが、悲しい気持ちがたいへん深い詩である。
と。
ぐぐっと言外の意を読み込んで「悲情深く至る」ように感じないといけないようです。
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魏・曹植「曹子建集」(民国・黄節編)巻二より「門有万里客行」(門に万里の客有るの行(うた))。
「門に万里の客有るの行」は、海○田万里さんがためいきをついて門前に佇んでいる、という詩ではありません。漢の時代の「楽府」の題で、本来は「遠くから客が来てくれた」という趣旨の宴会のときのうたではないかと推測されます。その原詩は魏のころにはもう伝わっていなかったようですが、曹植は題だけ見て「門前に遠くから来た(行く)旅人がいる」という意味に変えて替え歌を作ったのです。
対話体でなんとなく芝居仕立てなのは「楽府」の特徴で、「詩」というものが古い神聖演劇の歌辞であったことの名残を、まだ少しはとどめていたからでしょう。ちょうど曹植を含む漢末・三国のひとたちこそが、「詩」というものを個人の詠懐の文学に変質せしめたのであるといわれます。
・・・ということで、いつまでもここにいるわけには行きません。月曜が来るまでにすべてを捨てて逃げ出さないと。明日はいずこの町か。