外見の美しさなど、花のようにうつろうてしまうものじゃが。
本日、都内某所で晩飯を食っていたら突然携帯電話が鳴った。なにごとかと思ったら、仙台のOさんから、の電話であった。「おまえも今から仙台に来い」と言われるかと思ったが、言われなかったので、適当に対応して残りの飯食って帰ってきました。
そうか、仙台か。そういえば仙台はかつて「日本三大(●^^●)都市」の一つとして有名だったなあ。東北一の大都会なのに、何が原因でそんなことになってしまったのだろうか・・・。
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北方女子幾無一豊髪者。長若少、皆飾以元宝式之仮髻、翹翹然不自知其醜也。
北方の女子、一に豊髪なる者、無きに幾(ちか)し。長じてもし少なければ、みな元宝式の仮髻を以て飾り、翹翹然(ぎょうぎょうぜん)として自らその醜を知らざるなり。
華北地方の娘たちには、髪のゆたかなな子はほぼいない。ある程度おとなになって髪が少ないと、どの女の子も元宝式のかもじをつけて誤魔化すのだが、あからさますぎて醜く見えるのに、自分たちは気づいていないのである。
体貌之衰陋如是、且顔色憔悴、音吐鈍渋。以視南国、妍媸頓判矣。
体貌の衰陋かくの如く、且つ顔色憔悴し、音吐鈍渋なり。以て南国を視るに、妍媸頓に判ず。
肉体の外見が衰えているのはこのことからも理解できるが、顔かたちも憔悴したようであり、言葉つきも鈍重である。華南の女の子たちと比べてみると、あでやかさも愛嬌もあからさまに違っているのである。
さらに続きます。
余嘗研究其故、始以為土地与気候之関係有以致之。
余、かつてその故を研究するに、始めはおもえらく土地と気候の関係の以てこれを致す有らん、と。
わしはかつてその理由を研究してみて、当初は土地と気候風土の関係でそういう差が出てくるのではないか、と考えていた。
しかしその後、章太炎先生が書いた論文を読んで、「なーるほど」と納得が行ったのであった。
先生のいうところでは、―――――――――
北方文化、日就鄙野、原因非一。有一事最可厭悪者、則火坑是已。男女父兄子弟妻妾姉妹、同宿而無別、亟于聚会、無所避忌。則徳育無可言。
北方の文化、日に鄙野に就くは、原因一にあらざるも、一事最も厭悪なるもの有るは、すなわち火坑これのみ。男女・父兄・子弟・妻妾・姉妹、同宿して別無く、聚会にすみやかにして避忌するところ無し。すなわち徳育の言うべき無きなり。
北方チュウゴクの文化が、ひごとにいなかびていく原因は一つではないが、一つだけ、もっとも厭うべき悪い点は、すなわち「火坑」のシステムである。部屋を暖めるという暖房システムのせいで、男も女も、父兄も子弟も、妻も妾も姉も妹も同じ部屋に暮らして区別がなく、いつも集まっていて、お互いの間に別を設けるような作法が何も無い。これは倫理観を養成するのにまったく役に立たない、ということである。
「火坑」はいわゆる「おんどる」のことですが、ここではもう少し広めに、暖炉による暖房も入るのかも知れません。
おまけに
終日煬火、脳識昏潰、故思慮不通敏、則知育無可言。
終日火に煬(あぶ)られ、脳識昏潰し、故に思慮通敏ならず、すなわち知育の言うべきなし。
一日中、火にあたっているから、意識は混濁してしまい、ために考えはすっきりせず回転も遅い。これは知力を養成するのにまったく役に立たない、ということである。
さらには、
燥熱既甚、筋絡弛緩、地気本寒、而女子発育反早、未及衰老、形色已枯。則体育無可言。
燥熱すでに甚だしければ、筋絡弛緩し、地気もと寒なれば女子の発育かえって早く、いまだ衰老に及ばざるに、形色すでに枯る。すなわち体育の言うべき無し。
乾ききった暑熱がはなはだしいので、筋肉や神経は緩んでしまい、もともと気候は寒冷であることから、女性の発育は(抑えられるがゆえに)かえって早熟となって、まだ老いはじめる年齢でもないのに、すがたかたちは老化してしまうのである。これは肉体的な生育にまったく役に立たない、ということでもある。
ということで、
欲化導北方、以屏去火坑為亟云。
北方を化導かんとすれば、火坑を屏去するを以て亟と為せ、と云えり。
華北地方を変化させるよう指導しようとするなら、真っ先にやらねばならないことは「おんどる」暖房を取去ることだ、と考えるのである。
「なーるほど」でしょう。
言頗近理。
言、すこぶる理に近し。
このコトバはたいへん筋が通っているように思う。
また、
猶日本人之終日趺跏、腿短不修故耳。
なお日本人の終日趺跏(ふか)せるは、腿短くして修(なが)からざるゆえのみなるがごとし。
日本人が一日中あぐらをかいて座っているのは、単に足が短かくて長さが足ら(ず、ために椅子生活ができ)ないというだけのことである、ということともよく似たことであろう。
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民国・汪同塵の「苦榴花館雑記」より。
最後は自虐的に「なーるほど、そういうことか」と納得してしまえばいいのですが、しかしそれ意外の部分は、女性を外見だけで判断するなど共同参画・女性活躍に反する暴悪のかぎりをつくした論議であり、間違った考え方として断罪されねばなりません。が、本書の歴史性を重んじてそのまま掲載した。
ちなみに著者の汪同塵は光緒十七年(1891)江蘇・東台のひと。南洋水師学堂(南京海軍学校)を卒業し、中華同盟会に参加、海軍改革運動やジャーナリスト、学校教員などを経て蔡元培首席秘書などを務めたが、重慶で教育部在職中に、1941年5月3日の日本軍による重慶爆撃に遭難して卒した、というひと。その小論を集めた「苦榴花館雑記」には、杜甫や蘇軾の詩に関する考証やら抗日運動のことやら嫁いびりのことやら吉林の女風呂事情やらいろいろ興味の尽きないことが書いてあります。