お休みでしたー。コインランドリー行ったり、昼の用事や夜の用事で忙しかった。
と思っているうちにあっという間に日は暮れて、また明日は平日。根性を入れてやっていかないと・・・。
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勇気を出して王陽明先生に訊いてみました。
「あ、あのあのあの、先生、
声色貨利、恐良知亦不能無。
声色貨利も、恐るらくは良知また無きことあたわざらん。
音楽や色恋や金儲けの中にも、おそらく「良き知恵」はひそんでいるのではないでしょうか?」
―――なんでそんなことを訊くのだ。ふざけているのか!
と怒られるかと思ったのですが、先生はマジメに頷いて
固然。
もとより然り。
「そのとおり」
とお答えになった。
「ただし・・・
初学用工、却須掃除蕩滌、勿使留積、則適然来遇、始不為累、自然順而応之。
初学工を用うるには、却ってすべからく掃除し蕩滌すべく、留積せしむる勿ければ、すなわち適然として来たり遇うにも始めて累を為さず、自然に順じてこれに応ずるなり。
学問をはじめたばかりのころの努力は、とにかくそれまでに持っていたモノを掃除し、洗い流してしまうことが大切なんじゃ。何も心に残っていないようにすれば、そこへぴったりとやってきたモノゴトに出会っても、そのときはもうそれに繋がれることもなく、おのずと順応して対処していけることになるものだ」
そして、わしら弟子の顏を見渡されまして、おっしゃられた。
良知唯在声色貨利上用工、能致得良知精精明明、毫髪無蔽、則声色貨利之交、無非天則流行矣。
良知ただ声色貨利上に工を用うるに、よく良知を精精明明に致し得て毫髪も蔽う無ければ、すなわち声色貨利の交も天則の流行にあらざる無からん。
「「良き知恵」というものは、たとえ音楽や色恋や金儲けのために努力するのであっても、その中でよく「良き知恵」を細かいところまで明らかになるように発揮し尽くし、体毛や髪の毛の一筋さえも隠れていない、というほどにやってのけたならば、音楽や色恋や金儲けのいろいろの過程も、すべて宇宙法則の活動でないものはない、ということになるものなのである」
また先生曰く、
吾与諸公講致知格物、日日是此、講一二十年、倶是如此。
吾、諸公と「致知・格物」(知を致し、物を格す)を講じて、日日かくありて、講ずること一二十年、ともにこれかくの如し。
「わしは、きみらと「良き知恵を発現させ、物事を正しくする」ということを論じ合って、毎日毎日論じて、もう十年、いや二十年近くも、一緒にこんなふうにやってきたわけじゃなあ」
「そ、そうです」
諸君聴吾言、実去用功。
諸君、吾が言を聴き、実に用功し去る。
「きみらは、わしの言葉を聴いて、ほんとうによく努力しておるなあ」
「は、はい、でっちゅ」
と、先生は、ぎろりとわれらを見回して、力をこめておっしゃった。
「よろしいかな。
見吾講一番、自覚長進一番。否則唯作一場話説、雖聴之亦何用。
吾が講に見(あ)うこと一番、自覚すること長進一番なり。否なればただ一場の話説を作すのみにして、これを聴くもまた何の用あらん。
わしの講話を一回聴いたとして、その話を聞いて「なるほど、そのことか」と自分に当て嵌めて理解することが、いちばん進歩することなのじゃ。もしもそうでないなら・・・ただの世間話を聞いた、というだけのこと、話を聞いて何の役に立つものか!」
「ははあー!」
われわれはキモに命じたものであった。
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「伝習録」巻下・黄以方録より。
―――王陽明先生と弟子の関係はこんなにコワかったわけではなくて、厳しい中にも春風の中にいるような温かみがあるものであったろう、と思われます。それにしても「声色貨利の交、天則の流行にあらざる無し」なんて、王陽明先生以前の誰がここまで言いきったか、という激しい言葉でございます。はじめて聞いた弟子たちは「うひょー」と感動したことでしょう。しかし、こういう言辞がやがて「陽明学左派」といわれるグループを生みだし、あるがままが正しいので欲望のままに生きることを奨励しはじめて、社会思想として無意義化するとともに、封建体制側の失笑と弾圧を受けるようになるのでございます。わたくし肝冷斎がおこがましくも陽明学をあまり評価しないのもそのあたりにあったりするのでございます。
ともあれ、うちの職場も、明日からも?温かみのある日々が続くといいなあ。(T_T)