←わたくしも30年前ならそろそろ敬老じゃが・・・。
本日は「敬老の日」!
ですが、特に敬老はしていない。休みだからシアワセですが、明日は平日なので、忍び寄る平日の恐怖にそろそろ震え慄きつつある。
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かつて晋の魯褒が「銭神論」を書いたときには、「銭(貨幣)は神様だ」というのは皮肉だったのだが、
後世遂多以為然。
後世、ついに多く以て然りと為せり。
その後、時代が下ると多くのひとが「そのとおりだ」と考えるようになった。
今や
至以兄称之。
「兄」を以てこれを称するに至る。
「ゼニの兄さん」と呼ぶ者が出る時代である。
これは大変問題なことである。
古来より、父子・兄弟・君臣・朋友・夫婦の五つの関係をきちんと治めるというのが、わたしども(←肝冷斎にあらず、宋の李季可さんである。ちなみに肝冷斎は封建主義者ではありません)の信奉する封建社会の道徳上の重要課題であるが、
若事銭如事兄、其於父子等間、幾何其不相戕賊矣。
もし銭に事(つか)うること兄に事うるが如くせば、其の父子等の間において、そのあい戕賊せざることいくばくぞや。
もしも「銭」が人間関係における「兄」に該当することになれば、父子等の五つの人間関係は、大きくそこなわれ傷つけられること確実であろう。
封建社会を崩壊させてしまうかも知れません。
さて、「銭」というものの利用価値についてよくよく考えてみると、
直人役爾。
ただに人の役なるのみ。
ただ、ニンゲンのために使われるだけのもののはずである。
不問険艱汚穢清濁是非、転化姦回、善如人意。
険艱、汚穢、清濁、是非を問わず、転化し姦回すること善く人の意の如し。
苦労したものか、けがれたものか、きれいか汚れているか、正しいか不正か、などに関係なく、転じ変化させだまして元に戻すなど、使用するひとの思い通りに使うべきものである。
ということは、
蓋奴僕之超絶者也。
けだし、奴僕の超絶なる者なり。
つまり、下男の中のすごいヤツ、ということなのではないだろうか。
ああ。
天下日夜群趨之而不止。若復彰以兄名、其害将不勝言矣。
天下日夜これに群趨して止めず。もしまた兄の名を以て彰せば、その害まさに言うに勝(た)えざらん。
世の中のひとびとは、昼も夜もこれのために群れて走り回り、とどまるところがない。もしもそれに「兄」の名を与えて人倫上の重要な役割まで担わせることを明確にするなら、その封建社会への害悪は、ことばにすることもできないほどのこととなるであろう。
どうすればいいのだ・・・・
!
いいこと考えましたよ。
如曰孔奴、於理為当。
もし孔奴と曰わば、理において当たると為さん。
(「兄」と言わずに、銭には「孔」(あな)が空いていますから、)「孔奴」(下男の孔)と呼ぶなら、ぴったりくるのではないでしょうか。
よし、これからは銭のことは「孔奴」と呼ぼう。
雖未遽革貪夫之心、庶幾先以正其名。
いまだにわかに貪夫の心を革(あらた)めずといえども、庶幾(ねがわ)くばまず以てその名を正さん。
―――むかし、亡命中の孔子に、弟子の子路が訊ねた。
衛君待子而為政、子将奚先。
衛の君、子を待ちて政を為さんとせば、子まさになにをか先にせん。
衛の国のとのさまが、先生をお迎えして政治を任せたい、とおっしゃったとしたら、先生は何から手を着けられますかな。
孔子は答えた。
必也正名乎。
必ずや名を正さんか。
まずは(職名その他の)名称を正確にすることからであろう。
「うひゃあ、先生はほんとに迂遠な方だなあ。そんなヒマありますか?」
と子路は反論するのですが、孔子は
「おまえこそ本当にわかっとらんなあ。名称が正確でないと言論が整理されないし事務は進まないし文化は興らないし、何にもできへんぞ」
と教え喩す―――と、「論語」子路篇にございます。
「銭」のことを「兄」でなく「下男」と呼ぶことによって、
すぐには欲望のトリコとなっているやつらを改心させることはできないであろうが、それでもまずは「名を正す」(ぴったりとした名称にする)という孔子の方針に則った対策を採りたいものである。
云々。
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宋・李季可「松窗百説」より。
最近の「貨幣」は穴が開いてなくて「電子」だったりします。あるいは社会主義なのに「銭」に支配される体制もあります。如何にして名を正すべきであろうか。