痒い。頭いたい。神宮外苑によく出入りしています。デング熱では?
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さて、9月3日に出てきました斉の田忌さん。軍師の孫臏とともに梁を破ったと申し上げました。その詳しい記述は「史記」の「孫臏列伝」などをご覧いただきたいが、当時、田忌さんと孫臏はこんな会話をしていたらしいんです。
田忌曰、賞罰者、兵之急者邪。
田忌曰く、賞罰なるものは兵の急なるものか。
田忌が言うた、「・・・そうすると、賞と罰こそ、軍事の急所なのか?」
孫臏曰、非。夫賞者、所以喜衆、令士忘死也。罰者所以正乱、令民畏上也。可以益勝、非其急者也。
孫臏曰く、非なり。それ賞なるものは衆を喜ばせ、士をして死を忘れしむる所以なり。罰なるものは乱を正し、民をして上を畏れしむる所以なり。以て勝を益すべきも、その急なるものにはあらざるなり。
孫臏は言うた、「ちがいますぞ。その「賞」というものはひとびとを喜ばせ、兵士らを死ぬのも忘れて働かせる道具です。「罰」の方は乱れたものをもとに戻し、人民どもにお上を畏れ多く思わせるための道具です。これらによって勝利の可能性は増えることでしょうが、軍事の急所というものではございませぬ」
「へー。では・・・」
田忌はこの後、「権」(はかりごと)、「勢」(いきおい)、「謀」(作戦計画)、「詐」(奇策)について、それぞれ
兵之急邪。
兵の急か。
「・・・これが軍事の急所なのではないか?」
と訊いていくのですが、孫臏はそれぞれについて
非也。
非なり。
「ちがいますぞ」
と否定していきます。
田忌はついに
憤然作色、此六者、皆善者所用。而子大夫曰非其急者也。然則其急者何也。
憤然として色を作す。「此の六者はみな善者の用うるところなり。而して子大夫は「その急にあらざるなり」と曰う。しかればすなわちその急なるものは何ぞや」。
どっかーん!
と怒りまして、その怒りを顔に出して言う、
「(「賞」「罰」以下の)六の事項は、すべて有能なひとが利用している手法ではないか。なのに、大夫先生(部下であるが先生なのでこう呼んでいるらしい)はすべて「それらは急所ではありませんぞ」とおっしゃる。それなら、いったい何が急所なのか」
人の提示を否定ばかりしやがって。
とアタマに来たのでしょう。上司にこれをやられてもアタマに来ますから、軍師とはいえ部下にこれをやられたら、バクハツして当然です。
孫臏は答えて言った。
料敵計険、必察遠近■■■■、将之道也。必攻不守、兵之急也。
敵を料り、険を計り、必ず遠近の■■■■を察するは、将の道なり。必ず攻めて守らざるは兵の急なり。
■■■■は原文が欠落しているところ。ここまで引っ張ってきて、答えは闕文か!とびっくりしましたが、ここは答えそのものではないようなので、欠けていても意味は通じます。ああよかった。
「敵の状況を探り、地形の険阻を比べ、さらにはどれぐらい敵との距離があり■■■■なのかを考察するのは、前線指揮官のなすべきことです。そして、必ず攻めて守りに入らないこと、これが軍事の急所であります」
なんだ。そんなことでしたか。もっとすごいひねったような答えが出てくるかと期待していたら、ちょっとがっかりカモ。
田忌さんと孫臏先生の紀元前四世紀ごろの会話はこんな感じであったようです(と伝えられている)。
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「見敵必戦」(敵を発見したらとにかく戦ってみるという原則)はネルソン艦隊でも大日本帝国でも唱えられたそうですし、また星野仙一氏も「前に出て捕球するか下がって捕球するか、迷ったらとにかく前に出れば間違いがない」と指導しておられるなど、兵家の基本なのでしょう。勉強になりますね。
ところで、この二人の会話は「孫臏兵法」威王問篇から引用しました。
―――古来兵書として名高い「孫子」十三篇の作者は誰であるか?
という問がありますと、必ず「@春秋時代に呉で活躍した孫武か、その子孫でA戦国時代に斉で活躍した孫臏(←「臏刑=足切りの刑」を受けていたゆえの通名であろう)の二つの説がありまして、しかし「孫子」の思想や用語は戦国も末ごろのものが多いので、どちらかというとAが書いたのだが、@の時代以来のいろんな兵家の説が混ざっているのであーる」という趣旨の解説が、かつてはなされておりました。
わたしが初めて「孫子」を読んだころはそんな感じだったのですが、そのころ(1970年代)チュウゴクである漢代のお墓を考古学的に発掘したら、文字の書かれた大量の竹簡(竹の札)が出てきた。それを並べてみたら、どうやら「孫臏」の名前で記された兵書の断簡らしい。これが入手できるようになったら「孫子」の校訂にたいへん資するのではないか、ともいわれはじめていた。
それから40年ぐらいになりますが、文革→国交回復→日中友好(*^_^*)→天安門事件→イツワリの友好→現在を経て、今ではこの竹簡「孫子」も全文が公開されております(9月12日追記:我が国でも金谷治先生の訳注で2008年に出版されておりました)。
その結果、「孫子」とあまり重複分が無くて、(思想的には似た部分もありますが)まったく別の兵書だったことが判明して、一般にこれを「孫臏兵法」と呼ぶようになった(このため元の「孫子」のことを「孫子兵法」と呼ぶこともあります(例えば駢宇騫等訳注・中華経典蔵書「孫子兵法・孫臏兵法」中華書局2006))。
そうすると、元の「孫子」の筆者については「孫武か孫臏」のうち「孫臏ではない」ことが確実になってしまったので、最近は「孫武以来の諸家の説が混ざっているのであろう」みたいな感じで言えばいいようです。
なお、「孫臏兵法」もオモシロいにはオモシロいのですが、ニンゲンの本質に対する観察やこの世の事象の洞察に関してはやっぱり本家?の「孫子」にはちょっと及ばない感じがしますね。