平成26年9月1日(月)  目次へ  前回に戻る

三界虚妄。ならば新聞がA紙のように捏造だらけでもええじゃないか?

昨日までの肝冷斎は遠い山中に消え、今日からは新しい肝冷斎でちゅ。仲良くちてね。

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新しい肝冷斎になりましたので、これまでと違った観点から取り組もうということで、どーん、と難しいの、行きまっちゅ。

三界虚偽、唯心所作。離心則無六塵境界。

三界は虚偽にして、唯心の所作なるのみ。心を離るればすなわち六塵の境界無し。

欲界・色界・無色界、すなわち世界のすべては、虚にして偽り、すなわち見せかけだけのものでして、すべては「心」の作り出したものに過ぎないのです。「心」を離れれば「色・声・香・味・触・法」の六種の塵の世界は存在しないのでございまっちゅ。

「心」は、ふだんはいろんなことを考え、感じ、常に変化しているものでありますが、このような「心」を「事心」という。その「事心」の背後にはある不変の「心」の本質がある、と認識され、その不変の本質的「心」を「理心」という。上の文章で扱われている「心」はこちらの「理心」でありまっちゅ。

このことをいよいよ奥深く考えてみますと、

以一切法皆従心起、妄念而生、一切分別即分別自心。

一切法みな心より起こり、妄念よりして生ずるを以て、一切分別は即ち自心を分別す。

すべての存在は「心」から起こるもの、妄念から生ずるものだということ、このことから、あらゆる意識化は自分の「心」を意識化しているにすぎないのだ。

「心」が「心」を見ているのである。そうでなければナニモノがナニモノを見ているというのか。

そこで、まさに知ることができる、

世間一切境界皆依衆生無明妄心而得住持。

世間一切境界、みな衆生の無明妄心によりて住持するを得たり、と。

世界のすべて、あらゆる事象は、みんな生きるモノたちのオロカな妄想のおかげであるように見えるのだ、ということを。

是故、一切法如鏡中像無体可得、唯心虚妄。

この故に、一切法は鏡中の像の如く、体の得べき無く、唯心にして虚妄なり。

以上からわかるように、すべての存在は鏡の中の像のように、本体として確認できるモノがない。ただ「心」があるだけで、見せかけだけなのである。

「鏡中像」の喩えです。みなさんの大切だと思っているモノも、すべて見せかけだけの「鏡中像」なんだそうですよ。

以心生則種種法生、心滅則種種法滅故。

心の生ずれば種種法生じ、心の滅すれば種種法滅するを以ての故なり。

理由は、「心」が発生するともろもろの存在が発生してくるのであり、「心」が消滅すればもろもろの存在も消滅するからである。

よっしゃー、がんばって「心」を滅ぼすぞー。

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梁・真諦三蔵訳「大乗起信論」より。

新しい肝冷斎はもうこの境地まで来ている、ということだ。もうひと押しで尽滅すると思われます。あまりぎゅうぎゅうと痛めつけないようにちてね。

 

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