←熱せられるとアブラが出る?
月曜日終わり。明日からは恐怖の四日間が、はじまる!明日からの恐怖の恐ろしさにビビっております。
それにしても「恐ろしい」といえば「猛火油」は恐ろしいですなあ。
なに? 「猛火油」を御存知ない? では教えて進ぜねばなりません。
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11世紀。
チャイナ西北部の辺境地帯にある城塞の武器庫には、
皆掘地作大池、縦横丈余。
みな地を掘りて大池の、縦横丈余なるを作れり。
どこに行っても地面を縦横それぞれ数メートル掘って、大きな貯水池が作ってあった。
そして、ここには、
以蓄猛火油。
以て猛火油を蓄う。
「猛火油」が貯えられていたのだ。
ただし、
不閲月、池土皆赤黄、又別為池而徙焉。不如是、則火自屋柱延焼矣。
閲月ならずして池土みな赤黄となり、また別に池を為(つく)りて徙(うつ)る。かくの如くせざれば、すなわち火、屋柱より延焼すなり。
一か月もしないうちに、池のまわりの土はすべて赤黄色に変化してくるので、そうなったらまた別の場所に池を掘って、そこに「猛火油」を移さねばならない。そうしないと、やがて池のまわりが高温化して、武器庫の柱や屋根に火が燃え移り、焼けおちてしまうからである。
すごい力である。
この「猛火油」と申しますものは、
出於高麗之東数千里、日初出之時、因盛夏日力烘石、極熱則出液。
高麗の東数千里に出で、日初めて出づるの時、盛夏の日力の石を烘(あぶ)るに因りて、熱を極めて液を出だすなり。
高麗国からさらに1,000キロ東の地で産出される。このあたりは太陽が最初に地上に出るところであるが、真夏のころ、地上に出たての力強い太陽光線が石を熱し、たいへんな高温に至るので、石から液が出る。
その液体が「猛火油」なのであります。
他物遇之即為火、惟真瑠璃器可貯之。
他物のこれに遇えば、即ち火と為り、ただ真瑠璃の器のみこれを貯うるべし。
ほかの物体がこれに触れると、あっという間に燃え始める。これを容れても燃えないのは、純度の高いガラス器だけである。
「土」さえ赤黄色に変化しだすのですからなあ。
―――さて、山西の中山府の府庁の西の方に大きな池があって、地元民は「海子」(うみ)と呼んでいた。わたしは若いころその町に赴任していたことがあるが、
猶記、郡帥就之以按水戦。
猶記するに、郡帥これに就きて以て水戦を按ず。
いまでも忘れられないことには、あるとき郡の部隊長が新たに赴任してきて、この池で水上戦の訓練をしたのであった。
その際、「猛火油」の威力を試してみることにした。
池之別岸、為虜人営塁。用油者、以油涓滴自火焔中過、則烈焔遽発、頃刻虜営浄尽。
池の別岸は虜人の営塁たり。用油者、油涓滴を以て火焔中より過らしむるに、すなわち烈焔にわかに発し、頃刻にして虜営浄尽せり。
当時、池の向こう岸は遊牧民たちの住処となっていた。
油係の兵士は、こちら岸で「猛火油」数滴を炎の中に垂らしただけであったのだが、その瞬間、激しい火焔が放射され、あっという間に向こう岸の遊牧民たちの住居を焼きつくしてしまったのだ。
「あーあ・・・」
とみんな茫然となった。遊牧民たちは老いも若きも幼きも、瞬時のうちに燃え尽きたのである。
しかも
油之余力入水、藻荇倶尽、魚鱉遇之皆死。
油の余力水に入りて、藻荇(そうこう)ともに尽き、魚鱉(ぎょべつ)これに遇いてみな死せり。
油の力はさらに水中に入って、藻(も)も荇(あさざ)も水草はすべて燃え尽き、魚もすっぽんもみんな死んで浮かび上がってきた。
のであった。
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天の和か地の利か何かが足りなかったのでしょう、こんな武器を持っていたのに、宋帝国は金や西夏に破れて江南に逼塞する(南宋)を余儀なくされたのでありました・・・。
南宋・康与之「昨夢録」より。
康与之は字を伯可、または叔聞といい、退軒老人と号す。北宋の時代、都・開封に近い滑州に生まれたが、北宋帝国が金帝国に滅ぼされると江南に逃れ、南宋に仕えた。はじめは「中興十策」などを唱えた愛国官僚であったが、後に金から帰ってきた秦檜らの屈辱和平派(秦檜はおそらく金のスパイ)に同調し、さらには宮中歌謡の歌詞を作ることを職にして「優伶の班」(俳優や楽師らのグループ)に入って、ほかの官僚たちからは相手にされなくなってしまった、というひとである。
「昨夢録」は北宋時代の逸聞を追述したものだが、後世の批評家からは
唐人小説之末流、益無取矣。
唐人小説の末流、ますます取る無し。
唐代の伝奇小説の真似をしているだけで、少しも評価すべき点は無い。
と酷評されております。
例えばこの「猛火油」のことなど、「遼史」に書いてある眉唾話を伝聞付会のまま無批判に書き写しているだけで、
終遼宋之世、均未聞用此油、火攻致勝。
遼・宋の世の終わるまで、均しくいまだ聞かず、この油を用いて、火攻して勝を致すを。
遼も宋もどちらも、金や元に滅ぼされるまで、一度もこの「猛火油」を使って勝利した、という記録が無いのはどういうことであろうか。
というもっともな理由で、その記述のいい加減であるのを指摘されているのである。(清・紀暁嵐らの「四庫全書提要」による)
批判ばかりされてかわいそうである。先週から今週のおいらみたい。(T_T)