今日はおそろしく暑かった。バテた。まだ一日ある・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・
なんにもしたくないし、しないようにしています。できないし。
何にもしない、というのはいいことだ。
天下莫難得於無事、而鮮知無事之可楽。莫甚危於立奇功、而多幸奇功之可成。
天下に無事より得難きは莫(な)きも、而して無事の楽しむべきを知るは鮮(すくな)し。奇功を立つるより甚だ危うきは莫きも、而して奇功の成すべきを多く幸いとす。
この世の中で、なにもやることが無い、という以上にありがたいことは無いのだが、なにもやることが無いのはすばらしいことだ、ということを知っているひとは少ない。驚くべき功績をあげる、という以上に危うい状態になることは無いのだが、驚くべき功績をあげることに成功したい、と思っているひとは非常に多い。
「奇功」というのは、STAP細胞の発明のようなコトです。
一身無事、雖有薬石、無所用之、之謂安。天下無事、雖有聖智、無所施之、之謂平。及万金良剤之設、智名勇功之著、其去危亡亦幾何矣。
一身の無事、薬石有りといえどもこれを用うるところ無き、これを安と謂う。天下の無事は、聖智有りといえどもこれそ施すところ無き、これを平と謂う。万金の良剤の設けられ、智名勇功の著(いちじるし)きに及ぶも、その危亡を去ることまたいくばくぞや。
人の身において何も問題が無く、たとえ薬やハリなどが準備されていてもそれらで治療すべき部分が無いのを「平安である」というのであり、世の中全体で何も問題が無く、たとえ聖人のごとき智慧の持ち主がいても、その智慧を発揮すべき事態が無いのを「平和である」というのである。
このような「平安」「平和」の状況で無いのなら、何万もの金貨でようやく求められるような貴重な薬が用意されている、あるいは名高い智慧者、功績を挙げた勇者が控えている、といっても、何か問題があるのであれば、危険に陥り亡国に瀕している状態とどれほどの違いがあろうか。
だから、こういわれるのだ。
善治身治天下者、常消息禍乱於未萌、不求赫赫有所建也。
善く身を治め天下を治むる者は、常に禍乱をいまだ萌さざるに消息し、赫赫(かくかく)として建つるところ有るを求めざるなり。
うまく一身を治め、また天下を治める者は、つねにワザワイや乱れをその兆しが現れる前に消し去ってしまい、他人に知られるような功績を立てようとはしないのである、と。
なお、天下無事、といいましても、
如漢文帝之末、包垢蔵患、終醸七国之変、則非也。
漢文帝の末に、垢を包み患を蔵し、ついに七国の変を醸すが如きは、すなわち非なり。
漢の文帝の治世の終わりに、悪事を隠し不平不満を表ざたにせずに「天下に問題無し」としているうちに、たまりにたまった問題点がダイバクハツしてついに呉楚七国の乱が勃発したようなのは、これはダメである。
一方、
若唐太宗之治、至群臣無可諌之事、庶幾乎。
唐太宗の治のごとき、群臣に諌むべきのこと無きに至るは、庶幾(ちか)いかな。
唐の太宗皇帝の時代、帝は諫言を好み、また朝廷には命がけで諫言を行う硬骨の臣が多かったので、問題点は覆われることなく次々に解決されていき、ついに諫言すべきタネが無くなってしまったといわれる。このような状態が理想に近いであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・
宋・李季可「松窗百説」より。理想は知りませんが、とにかくわしはなにもしません。何かしているように見えたらそれはしておらず、右のモノを左に置き、また右に移しているだけです。うっしっし。