平成26年8月10日(日)  目次へ  前回に戻る

逃げるでぶー

いよいよ日曜終わり。間もなく月曜日が来る。

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あるひとが言うた。

人之不能者、可教而能否。

人のあたわざる者、教えてよくすべきや否や。

できないやつに教えて、いつかやらせられるようになるものだろうか。

わし(←肝冷斎にあらず、明の江盈科さんなり)は思いますに、

安在其為不可。

いずくんぞその不可たるあらんや。

できないことがある、なんてことがあるものでしょうか。

且無論人、即禽獣、于人遠矣、然亦可教而人。

かつ人を論ずる無く、即ち禽獣は人に遠けれども、然るにまた教えて人たるべきなり。

人間はもちろんこと、鳥やケモノは人間より遠く劣ったものですが、それでもやはり教えれば人間と同じことができるものです。

たとえば、

瞿谷可教以言語。   瞿谷(くよく)は教えて以て言語すべし。

猢猻可教以演戯。   猢猻(こそん)は教えて以て演戯すべし。

黄雀可教以認字。   黄雀は教えて以て字を認むべし。

馬可教以銜杯。     馬は以て杯を銜うべし。

犬可教以舂臼。     犬は以て臼を舂くべし。

九官鳥は、教えればことばを使えるようになる。

お猿さんは、教えればお芝居ができるようになる。(猿芝居のことですね)

スズメは、教えれば字を理解するようになる。(スズメが字札を選んで持ってくる、という大道芸があったようです)

馬は、教えればさかずきをくわえて水を飲むようになる。(そういう芸があったのでしょう)

犬は、教えればウスをキネで搗くことができるようになる。(これもそういう芸があったのかな)

いやしくも、九官鳥、お猿、スズメ、馬、犬よりは上のやつらには、教えてできないことは無いはずである。

彼自謂不可教者、是自棄也。曾瞿谷等之不若、奚而人、奚而人。

彼自ら教うるべからずと謂うは、これ自棄なり。かつて瞿谷等の若かざるも、奚(なん)ぞ人たる、奚ぞ人たる。

そのひとが、「できないやつにやらせるのはムリだ」と言うのは、努力を放棄している、ということではなかろうか。九官鳥たちだってはじめはできなかったのだ。どうやって人間と同じことができるようになったのだろうか。どうやって人間と同じことができるようになったのだろうか。

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明・江盈科「雪濤小説」より。

これによれば、大道芸のドウブツたちのように、できるまでご飯を与えられなかったり、ムチや棒でたたかれるなど烈しく訓練されないとニンゲンらしくならないらしいのです。もうイヤ。

 

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