←狂犬でワン!
明日まではがんばる。明後日は知らん。
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紀元前556年のことだそうでございます。
宋の右師(筆頭大臣)であった華閲が亡くなると、その弟で司徒(大臣クラス)の華臣は、閲の跡継ぎで自らには甥に当たる華皋比がまだ若いのに乗じてその家の財産を奪い取ろうとした。
邪魔になるのは、一族の出身で先代からの家宰(大家老)である華呉であったので、華臣は
使賊殺華呉。
賊をして華呉を殺さしむ。
殺し屋を雇って華呉を殺させた。
賊六人以ハ殺諸盧門合左師之後。
賊六人、ハ(ひ)を以てこれを盧門の合左師の後に殺す。
六人の殺し屋は、華呉を盧門のところで、合左師(次席大臣の合さん)の背後で、短刀を使って殺した。
「ハ」(ひ)は鞘のついた両刃の剣であるという。とりあえず「短刀」と訳してみました。「盧門」は当時の宋の王城の門の一つ。「合左師」は「合」という土地を領地に与えられていた「左師」(次席大臣)という意味で、向戌(しょう・じゅつ)というひとである。
背後で人が殺されたのを見た向戌は、自分もテロの対象かと怖れて、
老夫無罪。
老夫無罪なり。
「この年よりめには何の罪もございませんぞ」
と命乞いした。
殺し屋たちは相手が左師の向戌と知って、
皋比私有討于呉。
皋比のひそかに呉において討つ有らんとすなり。
「華皋比どのは自分の判断で呉の国内でテロをしようとしていたのです。(そのためにその首謀者の華呉を殺したのです)」
と申し開きをしながら撤収していった。
その後、華臣は華呉の妻(華皋比家の女中頭)を捕らえ、
界余而大璧。
余に而(なんじ)の大璧を界(あた)えよ。
「おまえが保管している(華家の家宝の)大いなる玉飾りを差しだせ」
と強要したりもした。
これらのことは時の君主である宋の平公のお耳にも達し、平公は左師の向戌に
臣也、不唯其宗室是暴、大乱宋国之政。必逐之。
臣や、ただにその宗室にこれ暴なるのみならず、宋国の政を大いに乱さん。必ずこれを逐(お)え。
「華臣めは、華の本家にずいぶんひどいことをしているようじゃが(、あの性格では)、それだけではすまずに、今に我が宋の国政をも大いに乱すことになるじゃろう。あれを追放してしまえ」
と言うた。
しかし向戌は、
臣也、亦卿也。大臣不順、国之恥也。不如蓋之。
臣や、また卿なり。大臣の順(したが)わざるは国の恥なり。これを蓋うにしかず。
「華臣もまた、我が国の大臣クラスでございます。そのような重臣が君主に従順でない、などと知れたら、我が国の恥でございます。このことは内密にいたすのがよろしいかと思いまする」
と、
乃舎之。
すなわちこれを舎(す)つ。
この問題を取り上げなかった。
その代わり、馬車で華臣の家の門を過ぎるときには、わざわざ馬に自分で鞭をあてて、素早く通り過ぎるようにした。
ただそれだけのことであるのだが、華臣はそれに気づき、漠然と向戌のような弱腰の政治家でさえ自分の行動を非難しているのではないかと思うようになった。そう思うと、国人たち(城内に住む自由民。ギリシアの都市国家(ポリス)における「市民」に当たる)も自分の行動を非難しているかも知れないと感じられる。
だからといって別に行いを改めたりしたわけでもなく、漠然とそんな感じで冬になりました。
十一月甲午の日のこと(紀元前556年の11月甲午の日は22日だそうです)。
国人逐瘈狗。
国人、瘈狗(けいく)を逐う。
「瘈狗」(けいく)は「狂犬」のこと。
市民たちが、城内で狂犬狩りを行った。
たまたま
瘈狗入于華臣氏、国人従之。
瘈狗、華臣氏に入り、国人これに従えり。
狂犬が華臣の屋敷に入り込んだので、市民たちはそれを追って華家に続々と入り込んできた。
狂犬を追うためにみな興奮し、手に手に棒や杖を振り回している。
国人たちのその姿を見て、
華臣懼、遂奔陳。
華臣懼れ、ついに陳に奔れり。
華臣は恐怖し、そのまま逃げだして、隣の陳の国に亡命してしまった。
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「春秋左氏伝」(襄公十七年)より。権力者とその地位についての根本的な問題を示唆するオモチロいお話でありまっちゅ。なんとなくメルヘンっぽくて、コドモたちにも喜んでもらえるカモ。