二十年以上も前に読んだ本を引っ張り出して眺めた。
う〜ん。やっぱり何にも覚えていない。
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先生がおっしゃった。
種樹者必培其根、種徳者必養其心。
樹を種(う)うる者は必ずその根を培い、徳を種うる者は必ずその心を養う。
木を植えようとするときには、必ず根のまわりの土を耕して栄養十分にしてやるはずだ。同じように、立派なニンゲンになろうとするのなら、必ず心に養分をたくわえておかねばならない。
「なーるほど」
欲樹之長、必于始生時刪其繁葉、欲徳之盛、必于始学時去其外好。
樹の長を欲すれば、必ず始生の時にその繁葉を刪(けず)り、徳の盛んなるを欲すれば、必ず始学の時にその外好を去る。
木を育てていくときには、生え出たすぐの苗木のころに、その多すぎる葉を切り落とす必要がある。立派なニンゲンになろうとするならば、やはり(道義の)学問をはじめたすぐのころに、外の世界への嗜好を取去ってしまわねばならんのだ。
「えー? 好きなモノはなんでも止めないといけないのでっちゅか?」
如外好詩文、則精神日漸漏泄在詩文上去。凡百外好皆然。
外に詩文を好むが如きも、すなわち精神、詩文上に日に漸くに漏泄し去る。凡百の外好みな然り。
詩を作ったり文章を書いたりすることが嗜好であったとしても、心の精なる部分は、毎日毎日だんだんと詩文の上に漏れ出ていってしまうのだぞ(こんなことでは立派なニンゲンになることはできない)。その他もろもろの嗜好はすべて同様だ。
「やっぱりなんでもダメなのね・・・」
また、おっしゃった。
我此論学、是無中生有的工夫。諸公須要信得及、唯是立志。
我、ここに学を論ずるに、これ中に有的の工夫を生ずる無し。諸公、すべからく信じて及ぶを得るを要(もと)むべく、ただこれ志を立つるなり。
わたしはこんなふうに学問について講じているわけだが、この講義をきくだけでその中から「やるべきこと」が実在してくるわけではないのだ。きみたちは、必ず自分が立派なニンゲンになれる、なるんだ、と信じ、求めていくことが必要である。つまりはココロザシを立てなければならないのだ。
「あいでっちゅー!」
学者一念為善之志、如樹之種、但勿助勿忘、只管培植将去、自然日夜滋長、生気日完、枝葉日茂。
学者、一たび善を為すの志を念ずれば、樹の種の如く、助くるなく忘るるなく、只管(ひたすら)に培植して将ち去り、自然に日夜滋長し、生気日に完く、枝葉日に茂らん。
「学者」とはアカデミストの意ではなく、「学ぶ者」という本来の意味。
学問をしている者が、ひとたび「善くなろう」というココロザシを持ったならば、木を植えた場合と同じように、ムリに引っ張たり水もやらずに放っておいたりというようなことなく、ひたすら土をかえ水分を与えていれば、自然に日夜に伸びて大きくなり、生気がどんどん満ちてきて、枝や葉がどんどん茂るようになるだろう。
「只管(ひたすら)が大切なんでちゅねー」
樹初生時、便抽繁枝、亦須刊落、然後根幹能大。初学時亦然、故立志貴専一。
樹初めて生ずるの時、すなわち繁枝を抽き、またすべからく刊落すべく、しかる後に根幹よく大なり。初学の時また然り、故に志を立つるには専一を貴ぶ。
木が大きくなってきたはじめのころは、どんどん出てくる枝や葉の一部を選んで残し、それ以外のものは切り落としてしまわねばならない。そうして、はじめて根や幹が大きく育つのである。
学問をはじめるときも同じである。だから、(学問をしていこうという)ココロザシを立てたら、それからは集中力が大切なのである。
「ははー! がんばりまっちゅー!」
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明・王陽明等「伝習録」巻上より第115条(薛侃録)。(ちなみに、王陽明の弟子たちがこんなに「ひとをバカにしたような」合いの手を入れていたわけではありません。合いの手にあたる部分は、あくまで読者の理解に資するために補足したのである。)
むかし読んだときは「いつかわたしにもわかる時が来るのだろう」と思っていたものですが、今読んでみると・・・なるほど、王陽明というひともその弟子たちも生きていたのだなあ、ということだけはよくわかるようになったみたいである。ゲンダイではなくその時代に生きていたこと、その時代においても最も優れたひとたちであったのであろうこと、この二点だけでも言っていること、やっていることが全部理解できるというはずがない。何しろ同じゲンダイに生きていて、わたしどもと同じようなどうしようも無いひとたちのことでさえ、なかなか理解できないのが実情でありますもんね。