七月一日ですが、それよりまだ火曜日。平日があと三日も。気力はもちろんであるが、体力ももう続かない。毎週月曜日までと水曜日ぐらいからは気力はどうせ尽きて「ぼけー」としているだけなので、動いて会社まで来る体力さえあればいいわけですが、それさえもう・・・。
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漢の文帝(在位前180〜前157)の時代に侍郎(各省の課長クラス)であった劉京というひと、邯鄲の張仙人に学んで道を得るとともに、「雲母朱英丸」という仙薬の処方を授けられた。この丸薬、名前を見ただけでも、雲母(ガラス)や朱英(水銀を含む鉱物)などからだに良さそうなモノが含まれていること明白な、すばらしい薬であったようである。
劉京はこの薬を服用していたので、
百三十余歳、視之如三十許人。
百三十余歳にしてこれを視るに三十ばかりの人の如し。
百三十歳余りのころ、外見は三十歳前後に見えたのであった。
彼には予知の能力があって各方面から占いを頼まれたほか、
能為人祭天益命、或延得十年五年。
よく人のために天を祭り命を益し、あるいは十年、五年を延ばし得たり。
依頼されて天をまつる祭りを行って、そのひとの寿命を、十年とか五年とか延ばすこともしていた。
後漢の末、魏の武帝(曹操)が実権を握ったころ(紀元200年ごろ)に、皇甫隆というひとが劉京(この時点で400歳ぐらいか)の弟子となって、「雲母朱英丸」の処方を得てこれを服用し、
得三百歳。
三百歳なるを得たり。
三百歳まで生きた。
ということは、五世紀まで生きていたということになる。しかし彼は、かなしいかな、
不能尽其道法、故不得度世。
その道法を尽くすあたわず、故に世を度するを得ざるなり。
師から継いだ道の理論を尽くすことができず、このため、仙界に昇ることができなかった。
長生きはできたが、最終的にはニンゲンとして死んでしまったのである。
王公というひとも劉京の弟子となり、彼は「九子丸」という薬の処方を授けられた。
時王公已七十歳、乃服之、御八十妾、生二十児。
時に王公はすでに七十歳にしてすなわちこれを服し、八十の妾を御し、二十の児を生ぜり。
そのとき王公はすでに七十歳だったのであるが、この薬を服用したところ・・・、へへへ、すごいじゃありやせんか、八十人もの愛人を満足させ、彼女らに二十人もの子どもを産ませたのである。
「九子丸」というのは「一粒で九人こどもが出来る」という薬なのだそうです。
王公はまた
騎馬猟行日二百里、飲酒一斛不酔、得寿二百歳。
騎馬して猟するに行くこと日に二百里、飲酒すること一斛なるも酔わず、寿を得ること二百歳なり。
馬にのって狩猟に出かけるのであるが、一日に100キロ前後移動することができ、酒は18リットル飲んでも酔わず、二百歳まで生きた。
このひとは欲を絶って仙人になることなど絶対できなかったと思いますが、単に三百歳まで生きるだけよりは、二百歳までこの状況で、へへへ、いろいろお楽しみにもなられた、ということでやすからね、成功者というべきであろう。
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宋・趙全陽「歴世神仙体道通鑑」巻十二より。勉強になりますねー。
というほどの体力は要らないのですが、起きて会社へ行ってぼけーとして昼飯食ってぼけーとして帰りに晩飯食って風呂入る、ぐらいの体力は欲しいところ。