平成26年6月14日(土)  目次へ  前回に戻る

 

先週からどんどん追い込まれてきましたね。呼吸とかいろいろ不味くなってきた。精神状態的に。

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昨日からの宿題。「春秋左氏伝」にいう、

善敗由己、而由人乎哉。詩曰、豈不夙夜、謂行多露。

善・敗は己に由(よ)り、人に由らんや。詩に曰く、「あに夙夜ならざらんや、謂、行(みち)に露多し」と。

成功するか失敗するかは自分のせいなのであり、他人のせいということはないのだ。詩経にも次のように歌われている。

「たしかにもう夜明け間近だけれど、道には夜露が多いようだから」

と。

この詩経の句「豈不夙夜、謂行多露」がなぜ「成功するか失敗するかは自分のせい」であることの裏付けになるのであろうか?

この句は、「詩経」の「国風」(各国の伝承歌)のうち、「召南」(河南地方の歌)の中に収められている「行露」(みちのべの露)という題名の詩に出てきます。

そこでこの詩を読んでみます。(原則として宋・朱晦庵(いわゆる朱子)の「詩集伝」の解に依った。)

厭浥行露、豈不夙夜、謂行多露。・・・・A

厭浥(えんゆう)たる行露、あに夙夜ならざらんや、謂(おそ)る、行(みち)の多露なるを。

「厭浥」(えんゆう)は湿っている、じめじめしているの意。「行」は道、道路、「夙夜」の「夙」(しゅく)は「早」の意で、「夙夜」は@夜明け前と日没後、すなわち「朝な夕な」の意味の場合と、A「早夜」すなわち「夜明け前」の意味の場合があります。@でも解釈は成り立ちますが、朱子の解釈はAの方を採る。「謂」は「言う」でも通りますし、この詩の中でほかの二か所ではその意味で使われていますが、ここは「畏」の仮借だ、というのが朱子の説。

じめじめとみちのべに露が降りている。たしかにもう夜明けは近いけれど、道に夜露が多いのを恐れているのだ。

なんじゃこりゃ?

朱子の解釈は次のとおり。

南国之人、遵召伯之礼、自守。而不為強暴所汚者、自述己志、作此詩以絶其人。

南国の人、召伯の礼に遵(したが)い、自守す。而して強暴の汚すところとなるを為さざる者、自ら己の志を述べ、この詩を作りてその人を絶するなり。

河南の方のひとは周の初めごろの召公奭(しょうこう・せき)の教えのおかげで、礼儀を大切にし、自分がそれから外れないように努めている。そんな地域で、権勢の強い者に無理やりに礼を失ったことをされるのに肯んじないひとが、自分の思うところを言葉にし、この詩を作って相手の権力者と絶交した作品なのだ。

語句を解釈すると、

言道間之露、方湿。我豈不欲早夜而行乎。畏多露之沾濡而不敢爾。

言う、道間の露、まさに湿る。我あに早夜にして行くを欲せざらんや。多露の沾濡を畏れてあえてせざるのみ。

意味は、「道のべの露は今ほんとうにジメジメしています。あたしは朝早くに行動するのをいやがらないのだけど、露にべたべた濡れちゃうのがイヤで、行かないのよ」というのである。

蓋以女子早夜独行、或有強暴侵陵之患、故託以行多露而畏其沾濡也。

けだし、女子の早夜に独行せばあるいは強暴の侵陵の患有るを以て、故に行(みち)の多露にしてその沾濡を畏るを以て託すなり。

つまり、若い女性が夜明け前にひとりで歩いていると、力の強いやつにムリヤリやられてしまう恐れがあるので、「道のべに露が多くて濡れるのがイヤなんです」という理由にしてお断わりしているのである。

おわかりでしょうか。

上記のA句はどうやら強い力を持ったひとからケッコンしてヨメ入りを迫られている女性が、ケッコンを断っている言葉なのだ、ということのようです。

そのようなA句「左氏伝」がここで引用している理由は、三国・杜預の説(「左伝杜氏注」)によれば、

以喩違礼而行、必有汚辱。是亦量宜相時而動之義。

以て礼に違いて行けば、必ず汚辱有るに喩う。これまた宜を量り時を相して動くの義なり。

この詩句を引用して、礼に外れた行動をとって夜道をひとり行けば、必ず汚され辱しめを受けることになる、という喩えにしたのである。礼に外れた行動をとらない、ということもまた、適切な判断を下し、状況に応じて行動する、ということの一例なのだ。

自分で適切な判断を下し、状況に応じて行動すれば成功するし、そうでなければ失敗する、ということの喩えになっていたのでちたー。

わかりまちたかー。

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それにしてもこの詩、朱子は単に「勇気ある女性」ぐらいの解釈ですが、朱子以前の古注ではさらに具体化されていて、この詩を作ったのは「申氏」という女性で、その女性に許婚者がいるのだが、その許婚者が礼の手続きに則ったヨメ迎えの儀式をしてくれないからわたしは嫁ぎません、という歌で、実は当時のどこやらの国の君主の行動を批判しているのだ・・・、と穿った説明をしていますが、ほんとに当時の女性がそんな思いを持ち、そんな内容で詠ったうたなのか。その程度の感情が何世代にもわたって歌いつがれて行くとは、肝冷童子の子ども心にも到底思えないのですが・・・。

あまり長い詩ではないので、残りを全文書きだしますと、

誰謂雀無角、何以穿我屋。誰謂女無家、何以速我獄。雖速我獄、室家不足。

誰か謂う、雀に角無しと。何を以て我が屋を穿たん。誰か謂う、女(なんじ)に家無し、と。何を以て我を獄に速(まね)く。我を獄に速くといえども、室家に足らざらん。

「角」は「くちばし」だという説もありますが、朱子はそのまま「つの」である、と解しています。

スズメに角があるならわたしの家に穴をあけることもできましょう。しかしみなさんおっしゃってますよ、スズメには角なんて無いぞ、と。

あなたがきちんと「ヨメとり儀式」に基づいてわたしを求めてくださってれば別ですのに、みなさん御存知のとおりあなたはそんな手続きはふんでくれてません。

それなのにお役人にまで訴え出て、わたしをヨメにしようという。お役所なんかに訴え出ても、ぜーったい、ヨメになどなるものですか。

「家」とか「室家」というのは「夫婦」、特に礼に基づいた正式のものをいう。

誰謂鼠無牙、何以穿我墉。誰謂女無家、何以速我訟。雖速我訟、亦不女従。

誰か謂う、鼠に牙無しと。何を以て我が墉(よう)を穿たん。誰か謂う、女(なんじ)に家無し、と。何を以て我を訟に速(まね)く。我を訟に速くといえども、また女に従わざらん。

ネズミに牙があるならわたしの家の壁に穴をあけることもできましょう。しかしみなさんおっしゃってますよ、ネズミに牙なんて無いぞ、と。

あなたがきちんと「ヨメとり儀式」に基づいてわたしを求めてくださってれば別ですのに、みなさん御存知のとおりあなたはそんな手続きはふんでくれてません。

それなのに裁判所にまで訴え出て、わたしをヨメにしようという。裁判所なんかに訴え出ても、ぜーったい、言うことなんか聞くものですか。

なんかユーモラスな感じしませんか。

これは、ちょっと考えればわかるとおり、男性・女性に分かれて歌を掛け合う、いわゆる「歌垣」の際の女性からの掛け合いの歌ですよ。

まず男性から掛け合い(例えば○○ちゃんがほしい、いちもんめ、みたいな)がありましたのに対して、女性の側からは全員でAを歌い、そのあと各個別の女性がスズメに角が無い、とか、ネズミに牙が無い、という部分だけを入れ替えて順次歌っていく。そのとき、男の側か女の側かで、スズメやネズミを真似たおどけた(少々エッチな)所作事(形態模写みたいな)をして、みんなで笑ったりしたのではなかろうか。

そうして、歌と踊りと即興の興奮でだんだんハアハアしてきて、そのうちいいのを捕まえて、男女のカップルが野山のあちこちに消えていく・・・。

そんな夜の祭の歌だったのではないかと思われまっちゅ。それだったら何世代にもわたって伝えられてもおかしくないよね、と、コドモ心に。

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いけね、おいらコドモじゃなくて肝稗道人だったのでちた、つけひげ、つけひげ、と。・・・・えー、おっほん。エッチの歌とは怪しからんのう。

 

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