昭和の日でした。お休みの日はいろいろ、来し方行く末についても考えることができる。
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十二世紀の、ある先生と弟子の会話。
―――先生、われらはどこに帰るのでしょうか?
帰根本、老氏語。
根本に帰すは老氏の語なり。
存在には根本があり、いずれはそこに帰るのだ、というのは老荘思想家の考えだな。
わしはそうは考えない。
―――ではどこへ・・・?
わしは、われらは、
畢竟無帰。
畢竟、帰する無し。
窮極のところ、どこにも行かない。
と考える。
這個何曾動。此性只是天地之性、当初不是自彼来入此、亦不是自性而復帰。
這個(しゃこ)何ぞかつて動かん。この性、ただこれ天地の性なり、当初にこれ彼より来たりて此れに入るにあらず、またこれ自性にして復帰するにもあらず。
こいつめ(←自分の本体)が、どうして動いたことがあるものか。われらの本体は、まさしく天地の本体と同じなのだ。最初に、あちらから来てこれ(自分の身体)に入り込んだのではないし、おのずから戻っていく、というのでもないのだ。
―――そ、そうなんですか。
こんなふうに考えてみてくれ。
如月影在一盆水裏、除了盆水便無了。豈是這月影又飛上天去、帰那月裏哉。
月影の一盆水裏に在るが如き、盆水を除き了せばすなわち無し。あにこれ這(こ)の月影のまた飛びて天に上り去り、那月裏に帰するならんや。
月影が皿の水に映っているとき、皿の水をぶちまけてしまえば、その月影はもう無くなってしまう。そのとき、「皿にあった月影は飛び去って、天上のあの月の中に戻って行ったのだ」とは思えないだろう。
―――うーん・・・
また、こうも考えられないか。
如這花落便無這花了。豈是帰去那裏、明年又復来生這枝上哉。
這(こ)の花の落つればすなわち這の花無し。あにこれ那裏に帰り去りて、明年またまた来たりて這の枝上に生ずるならんや。
花が落ちれば、もうその花は無いのだ。そのとき、「この花はどこかに行ってしまっただけで、来年になると、その花がまたやって来て、この枝の上に着くのだ」とは思えないだろう。
われらは水面にしばらくの間浮かんでいる月影、季節の過ぎて落ちいくまでの間だけ咲く花、に過ぎない。しかしそれがある間は、空の月影と同じほんものの月影なのであり、毎年毎年枝の上に開くほんものの花なのだ。
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「なーるほど、わかりまちたぞー!」
「いや、ほんっとにすっきりしたー!」
「おかげで明日からもっともっと充実した生活が送れまーちゅ、わーいわーい」
と安心立命できるひとが少しぐらいいるといいのですが・・・。
ちなみにこの会話に出てくる「先生」は、南宋・新安の朱熹、自ら号して晦庵先生と称す―――すなわち「朱子」です。元・長谷真逸「農田余話」巻下より。
わたしごときは若きより悩み続けてまいりましたが、とうとう「わかりまちたー!」と言いきれずに今に至る。
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