平成26年4月20日(日)  目次へ  前回に戻る

 

「ごめんくだぶう」

ごろごろしていましたら、お客が来まちた。ぶた商人でちゅ。

「どうちまちたかな、ぶた商人どの」

「新しい本を手に入れましたのでお持ちしたのぶう」

「おやおや、どんな本でちゅかな」

ぶた商人が行李から出して来たのは

宋・計有光の撰「唐詩紀事」全八十一巻であった。

先々代の肝冷斎や先代の肝冷斎が亡命したり行方不明になったときに、それまでの蔵書を持ち出して行った形跡があり、その持ち出しの中にあったか無かったか、いずれにせよ現在の肝冷斎には「唐詩紀事」は保有されておりません。欲しいでちゅよー。

「しかし、ぶた商人ちゃんの商品はいつも価格が少し高めでちゅからね。どうちようかな・・・」

とおいらが逡巡しますと、ぶた商人は

「ぶうぶう、わしらは移動に負担がかかるのでわしらぶた商人の商品の価格がよそさまより少し高めなのは知れたこと。買ってくれないのなら、食べてしまうでぶう」

ぶた商人は本当に本に食いつこうとします。大切な本が食べられてしまってはかないませんので、

「わかりまちた、買いまちゅよ」

と衝動買いでちゅ。〆て3,000円(+消費税)。(T_T)

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唐の厳武、字は季鷹。年三十二にして給事黄門侍郎に補せられ、翌年、四川節度使として成都に赴任した。

その後を追って、上元元年(760)、父の友人で厳武自身も幼いころから知っている杜甫という五十歳ぐらいの無職のおっさんが、家族を連れて成都にやってきた。杜甫はかつて則天武后のころに権勢におもねって宰相になった杜審言の孫だか曾孫だかに当たる没落貴族である。

とはいえおやじの友人だということで、職をあてがったり家を作ったり季節ごとに食べ物を贈ったりした。

ある日、厳武の主催で宴会を開いたところ、宴たけなわとなったとき、

杜甫乗酔言、不謂厳挺之乃有此子也。

杜甫、酔に乗じて言う、「厳挺之、すなわちこの子有りと謂わざらんや」と。

杜甫が酔っぱらって、主人の厳武の椅子に寄りかかり、その顏をじろじろ見ながら、

「おやじの厳挺之はどうということは無かったが、立派な子がいたもんじゃないかのう」

と言ってのけたのであった。

あまりに非礼なので回りの者みんな凍りついたが、

武恚目久之、曰、杜審言孫子、擬埒虎鬚。

武、恚目これを久しくし、曰く、「杜審言の孫子、擬して虎の鬚を埒(ひ)けり」と。

厳武は怒りに燃えた目でしばらく杜甫を睨んでいたのだが、ややしばらくして落ち着き、

「杜審言さまの子孫の方は、トラのひげを引っ張って遊んでいなさるわい」

と受け答えたので、

合坐皆笑、以弥縫之。

合坐みな笑い、以てこれを弥縫せり。

その場にいた者はみんな笑って、なんとか取り繕ったのであった。

ああよかった。

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と、「唐詩紀事」巻二十に書いてあった。

杜甫というひとはかなり偏屈で、まわりの人が困るようなことをよくやったらしい。当時重んじられなかったのもムベなるかな。

ところで、この事件には続きがあります。

―――厳武はこのことをふくみ、

一日欲殺甫、集吏於門。

一日、甫を殺さんとして吏を門に集む。

ある日、とうとう杜甫を死刑にしてしまおうと思って、担当の役人たちを官舎の門のところに呼び集めた。

そして杜甫の呼び出しを命じようと、

将出、冠鈎於簾者三。

まさに出でんとして、冠の簾に鈎すること三たび。

部屋を出ようと立ち上がったとき、かぶっている冠が簾に引っかかり落ちそうになった。それを直して出ようとすると、また引っかかった。さらにもう一度同じことが起こった。

これを見ていた側近の者が、

「これはまともなことではない」

と覚り、

走報其母。

走りてその母に報ず。

走って行って、厳武の母親に報せた。

母親すぐ飛んできて、なにごとかと問うと、厳武は、もはや腹に据えかねたゆえ杜甫のおっさんを殺すんじゃ、というのである。

杜甫は厳武のおやじの親友である。

母親は父の代からの友人を手に懸けてはならぬ、と

力救得止。

つとめ救いて止めるを得たり。

強く杜甫の弁護をしたので、やっとそのことは沙汰やみとなったのであった。

という。

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これは、元・辛文房「唐才子伝」巻二より。この話は「冠、簾に鈎すこと、三たび」と言って案外有名な挿話なので、受験生のひと(←何を受験するのかは知りませんが)は蛍光ペンでライン引いて覚えておきまちょー。

おいらも明日は

「出勤しようとして、帽子が三回ドアに引っかかったので・・・これはまともなことではない、と思いまちて・・・」

というのを理由にしてサボれる・・・ような気がしてきた。

 

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