平成26年4月5日(土)  目次へ  前回に戻る

 

東京あたりの桜は、「うひゃあ、あと一日以上地上で生きていると月曜日が来るよー」と大慌てで大地に帰り行きつつありますね。おいらも月曜日まで地上世界に居るのイヤだなあ。どうしようかなあ。

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今日のところは明日も休みなので、久しぶりで古典でも読んでみるか、と思いまして「詩経」「大雅」より、「板」篇を読みますよ。

ちなみに「板」篇の「板」は「いた」では無くて、「反」の仮借と考えられています(古い写本では「版」となっているものもあるよし)。なんでわざわざ画数の多い字を借りてくるのだろう、と思うのはゲンダイの浅知恵で、当時の字形では「反」は「反する」の意味以外に読まれる可能性が高かったのかも知れませんし、ほかの字と字形が似ていて使いづらかったのかも知れません。

また、この詩は、伝統的に、周王家の同族である凡伯のじじいが悪政を施す若い脂、を批判したものだ、と解されてきています。そうすると、紀元前9世紀半ばごろのこととなります。固有名詞はもしかしたら違うかも知れませんが、確かに顧問格の老臣が若い王さまを批判しているというスタイルには読めるので、そういう理解のもとに読み進めます。凡伯は脂、が追放された後、代わって天下を治めた共伯の和(彼の治世が王のいない「共和」の時代とされる)であるともいいますが、ほんとかなあ?ちょっとアヤシイなあ。

全体で八連から成ります。

上帝板板、下民卒癉。  上帝板板(はんはん)たり、下民卒癉(すいたん)す。

出話不然、為猶不遠。  出話するも然らず、猶(ゆう)を為すも遠からず。

「上帝」は天帝のことです。暗に今の王さまのことを指す。「板板」は「反反」で、正道に反している、ということ。「卒癉」(すいたん)は「疲れる」。「猶」は「猷」の仮借で「はかりごと」。

おてんとさまが正しい道を踏み外されたから、人民どもは大弱り。

諫言しても従わないし、考え事は目先のことばかり。

靡聖管管、不実於亶。  聖を靡(な)みすること管管(かんかん)たり、亶(まこと)にするに実ならず。

猶之未遠、是用大諫。  猶(ゆう)のいまだ遠からざる、是を用って大いに諌むるなり。

「靡」は「無視する」、「管管」は「ほしいままにする様子」。

いにしえの聖人たちの言葉を無視してズケズケやり、誠実さは少しも無い。

考え事が目先のことばかりなので、わしはここで大いに御諫め申そうと思う。

以上、第一連。

天之方難、無然憲憲。  天のまさに難せんとするに、然して憲憲たる無かれ。

天之方蹶、無然蹶蹶。  天のまさに蹶(けつ)せんとするに、然して泄泄(えきえき)たる無かれ。

「憲憲」は「欣欣」(きんきん)の仮借で「よろこぶ様子」。「蹶」(けつ)は「乱すこと」。「泄泄」は「多く話すようす」。

天が災難を降らせようとしておられるのじゃ、きゃっきゃっと喜んでいるときではないぞ。

天が混乱を起こそうとしておられるのじゃ、ぺちゃくちゃとおしゃべりしているときではないぞ。

辞之輯矣、民之洽矣。  辞(われ)の輯(あつま)るや、民の洽(こう)なり。

辞之懌矣、民之莫矣。  辞(われ)の懌(よろこ)ぶや、民の莫(ばく)なり。

「辞」は「辝」(じ)の仮借、「辝」は「我」の意。「洽」は「団結すること」、「莫」は「「力を出すこと」。

 われら(為政者)が集合していてこそ、人民たちは力を合わせるのですぞ。

 われらが仲良くしていてこそ、人民たちは力を出しきるのですぞ。

 以上、第二連。

我雖異事、及爾同寮。  我は事を異とするいえども、爾(なんじ)と同寮なり。

我即爾謀、聴我囂囂。  我の爾に即(つ)きて謀(はかりごと)するに、我に聴くに囂囂(ごうごう)たり。

「同寮」は「役人同士の仲間うち」。「囂囂」は「傲傲」の仮借で、傲慢な様子。

わしは確かに役目は違うが、おまえさんとともに国のために働く身じゃ。

そこでわしはおまえさんにいろいろ策を申し上げたが、おまえさんはわしが話している間、えらそうにふんぞりかえっていましたなあ。

だんだん怒ってきました。

我言維服、勿以為笑。  我が言はこれ服なり、以て笑いを為すなかれ。

先民有言、詢於芻蕘。  先民に言有り、「芻・蕘(すうじょう)に詢(ことと)え」と。

「服」は「治まること」「まともなこと」、「先民」は「いにしえの賢者」。「芻」は「草」、「蕘」は「柴」のことで、それでも意味は一応通じますが、「草刈・柴刈をする山がつ・木こりの類」の意と解されています。「詢」(じゅん)は意見を求めること。

 わしの言っているのはまともな策じゃ、それを嘲笑うとはなにごとか。

 いにしえの賢者も言っておるではないか、「木こりや山びとの意見もよく聴いてみよ」と。

 以上、第三連。「芻・蕘に詢う」は熟語になってますので、試験を受けるひとは要注意。

天之方虐、無然謔謔。  天のまさに虐(しいた)げんとするに、然して謔謔(ぎゃくぎゃく)たる無かれ。

老夫灌灌、小子蹻蹻。  老夫灌灌(かんかん)たるに、小子蹻蹻(きょうきょう)たり。

「謔謔」は「うれしそうに笑う様子」。「灌灌」は「懽懽」の仮借で「誠実なようす」。「蹻蹻」は「驕驕」、「驕るようす」。

 天がひどいことを降そうとしておられるのじゃ、へらへらしているときではござらんぞ。

 この年よりめがねんごろに申し上げておるのに、若造のおまえさんがうひゃうひゃと上から目線とは何事か。

どんどん怒ってまいりました。

匪我言耄、爾用憂謔。  我が言は耄(もう)せるにあらざるに、爾、もって憂謔す。

多将熇熇、不可救薬。  多く将(おこな)うに熇熇(こくこく)たれば、救薬すべからず。

「匪」は「非」、「〜ではない」。「耄」は「老いて根乱すること」、ここの「憂」は「優」の仮借で「おもしろがる」。ここの「将」は「行う」の意。「熇熇」は火が燃え盛る様子。「薬」は「治療する」こと。

 わしの言っていることは年寄りの妄言ではないぞ、それなのにおまえさんは上から目線で笑いものにしおって。

 火を燃やすような惨酷なことばかりやっていたのでは、救うすべも無くなろうものを。

 以上、第四連。やっと半分。

飽きてきたので第五連は訳文だけ。

 天がお怒りになっておられるのじゃ、こびへつらったとて何になろうか。

 厳粛な礼儀などというものは守られず、まともなニンゲンはお祭りのときの人形のように黙りこくっておるわ。

 人民たちは「うう、いい」と苦しみ呻っているというのに、わしの言っていることを疑うありさま。

 乱れはもはや止まることなく、人民たちには恩恵が施されることなどないであろう。

次が、第六連。この連の前半の比喩は有名です。

天之牅民、如壎如篪、  天の民を牅(いざな)うや、壎(けん)の如く、篪(ち)の如く、

如璋如圭、如取如携。  璋(しょう)の如く、圭(けい)の如く、取るが如く、携するが如くすなり。

「牅」(よう)は「誘」の仮借。「誘う」「いざなう」。「壎」(けん)は土製の笛(オカリナ)。「篪」は竹製の笛。「璋」(しょう)は玉で製した半円型の飾り物。「圭」は「璋」を二つ合わせたもの、すなわち「円形」の飾り物。「壎」と「篪」は音がお互いに和合することをいい、「璋」と「圭」は形が和合するものであることをいって、いずれも気持ちがぴったり合う、和合する、ことに喩える。「取」は「手の持つ」こと、「携」は「提げ持つ」こと。

 天が人民を導くときは、まるで土笛と竹笛のように響き合い、

 まるで半円の玉と真円の玉のようにくっつき合い、まるで手に取り引提げるように大切にするものじゃ。

携無曰益、牅民孔易。  携には益(ふさ)ぐ無く、民を牅(みちび)くは孔(おお)いに易し。

民之多辟、無自立辟。  民の多く辟(へき)あるも、よりて辟(へき)を立つる無かれ。

「益」は「隘」(あい)の仮借、「塞ぐ」こと。前の方の「辟」は「僻」で、「ひがごと」「邪しまな行為」、後の方の「辟」は「法」「規則」。

 引提げるようにするならば途中で邪魔されることも無く、人民を導くのは非常に簡単なことである。

 人民どもがオロカで変なことをするからといって、規則で縛ろうとするのではダメなのだ。

 以上、第六連。じじいもちょっと落ち着いて来て、機嫌なおった感じ。

价人維藩、大師維垣、  价人(かいじん)はこれ藩、大師はこれ垣、

大邦維屏、大宗維翰。  大邦はこれ屏、大宗はこれ翰なり。

「价」は「善い」。「藩」は「まがき」。「師」は「衆人」、「邦」は諸侯の国、「宗」は同姓の一族、「翰」は「幹」の仮借。

 善きひとは国のまがきであり、大衆どもは国の垣根じゃ。

 大諸侯のたちは国の塀であり、王族たちは国の根幹ですじゃ。

懐徳維寧、宗子維城。  徳に懐(なつ)くればこれ寧(やす)く、宗子はこれ城なり。

無俾城壊、無独斯畏。  城をして壊せしむる無く、独りこれ畏るる無かれ。

 「懐」は和ませること、「懐徳」は「(武威や富貴ではなく)徳によって相手を和ませること」である。近世大坂の町人によって造られた私塾「懐徳堂」の名の拠って来たるところ。「寧」は「安寧」「安らか」、「宗子」は嫡系の長子。

 徳によって和ませるならば安寧となり、跡継ぎはまさに都市(国家)そのものじゃ。

 (周りにはこんなに守ってくれる人たちがいるのだから)都市(国家)を破壊させるようなことにはならぬし、孤立して不安になる必要など何もないのじゃ。

 以上、第七連。一見して、武田信玄の「ひとは城、ひとは石垣、ひとは濠・・・云々」がここの記述を和訳したのだ、ということがわかりますね。ちなみに今日明日は甲府「信玄公祭」催行中(甲府市在住のYT氏情報)。

敬天之怒、無敢戯予。  天の怒りを敬(つつ)しみ、あえて戯予する無かれ。

敬天之渝、無敢馳駆。  天の渝(かわ)りを敬しみ、あえて馳駆する無かれ。

「戯予」は「ふざけ、楽しむこと」、「馳駆」は好き放題走り回ることから、「きままな様子」。

天のお怒りには慎み畏れて、ふざけたり楽しんだりするな。

天の変じるときには慎み畏れて、きままなことをするな。

昊天曰明、及爾出王。  昊天これ明らかなり、爾とともに出王せん。

昊天曰旦、及爾游衍。  昊天これ旦なり、爾とともに游衍せん。

「王」は「往」の仮借。

かがやける天は明るいぞ、出るときも戻るときもおまえと一緒なのだぞ。

かがやける天はぴかぴかだぞ、どこに行ってもおまえと一緒なのだぞ。

だから天のいうことに耳を傾けよ、ということらしい。

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やっとおしまい。疲れた。

「仮借」してたり、文字の意味がゲンダイ日本で使う意味と違っていたりするのでめんどくさいが、言っていることは単純なので、意外とオモシロくありませんか。ないですか。そうですか。

「大雅」には、周王朝の歴史や宗廟での儀礼に関する重要な歌謡が集められていることになっております。おそらくは宗廟における先祖祭祀のための歌なのでしょう。

その祭祀の中で、過去の失敗を繰り返さないようにするためか、功績のあったひとを賞讃するためか、伝説的な場面を劇化した歴史劇を演じていたのではないかと思っております。本件「板」篇は、その歴史劇の中で演じられる、困難な時代における老大夫の「独白」の歌謡であったのでしょう。(繰り返しみたいになっているところは合唱隊がリフレインを詠っていたのかも。)

毎日休みにしてくれたら、毎日これぐらい読めるのになあ・・・。

 

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