・・・あれ? ここは・・・? どこだ? ・・・というか、わしはだれ? か・・・ん・・・れ・・・? だめだ、思い出せぬ。なにかしごとに追い詰められてさまよっているうちに、何もかもわからなくなってしまったような・・・。
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むかし、淮南の王は仙人になろうとし、
遍礼方士。
遍ねく方士に礼す。
あちこちの道士たちに礼を尽くして教えを乞うた。
そして
遂以八公相携倶去、莫知所在。
遂に八公を以て相携えて倶に去り、所在を知るなし。
やがて八人の同志たちとともにその行方をくらまし、どこに行ってしまったのか、もう誰にもわからない。
ああ。よかったですなあ。
さて、その臣下に淮南小山というひとがいた。
小山之徒、思恋不已、乃作南王歌焉。
小山の徒、思恋すること已まず、すなわち「南王歌」を作れり。
淮南小山たちは、いなくなった王をお慕いする気持ちが無くならず、「淮南王さまの歌」を作った、という。
ので、わたしも仙人になったに違いない淮南王を讃えようと、「南王歌」を歌おうとした。
しかし今となっては、淮南王の伝説と「南王歌」の名だけが伝わるのみで、歌そのものは忘れられ、思い出す人さえ無い。
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五代・馬縞「中華古今注」巻下より。
大切な歌も忘れられてしまうのだ。自分が誰であったか思い出せないけど、まあいいか。どうせ本来ニンゲンなんて、「ちち」「はは」とか「おじ」「おば」とか「友」と「敵」、「王」「臣」「民」など、関係性を示す呼称さえあれば足りるのであり、固有名の必要性など無いのであろうし。