本日は旧暦でいいますと西行法師の「そのキサラギのモチヅキ」の夜でありました。空に皓皓と満月あり。
なお、西行法師の顰みに習いまして、わしも今日、あるところでタヒのう―――と思っていたのですが、すかっと行かず、まだ生きております。後悔するかも。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二月梅花洛城東、 二月の梅花、洛城の東、
欲落不落待軽風。 落ちんと欲して落ちず、軽風を待つ。
二月(旧暦)の夜の梅の花、洛陽城の東町
落ちそうだけど落ちない状態、そよ風吹けば落ちるかも。
そのそよ風が吹いてきた。
花が散る。
その風の中―――
君不聞風前笛裏情、 君聞かずや、風前の笛裏の情、
翩翩吹満洛陽城。 騙々(へんぺん)として吹き、洛陽城に満つ。
あなたにも聞こえるだろう、あの風の中の笛の音が。
ひょうひょうと吹き、この洛陽城の隅々にまで広がりわたる清かな響き。
おお。
吹者不知聴者恨、 吹く者は知らざるも聴く者は恨み、
三弄都作断腸声。 三弄すべて作(な)す断腸の声。
笛を吹いているひとはどう思っているか知らんが聴いているわしはつらい―――
三曲吹いたがどの曲も心に沁みわたり、わしのはらわたはもうずたずたじゃ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
これは、服部南郭の古詩「聞笛」(「南郭先生文集」)。もちろん南郭先生は本朝のひとで、天和三年(1683)京都の生まれ、江戸に出て柳沢吉保に仕え、荻生徂徠に学び、享保三年(1718)柳沢家を致仕してより、上野・池之端、芝・増上寺に住して開塾。宝暦九年(1759)没。
なので、李白の有名な「春夜、洛城聞笛」(誰が家の玉笛ぞ、暗に声を飛ばすは・・・・)や劉廷芝の「代悲白頭翁」(洛陽城東、桃李の花、飛び来たり飛び去って誰が家にか落つ・・・・)を踏まえながら作ってはおりますが、「洛陽城」と言っているのは、実際には江戸の町のことでしょう。
「断腸」は、こちらの桓温の故事を参照ください。
「三弄」にも故事があります。
「晋書」巻八十一・列伝五十一に曰く―――
桓伊、字は叔夏、父の桓景も護軍将軍となった貴族の出であるが、若きより軍務に長じ、秦の大軍を破って南北朝並立の状況を創り出したといわれる淝水の会戦に大功を挙げ、建威将軍・歴陽太守に任ぜらる。
・・・さて、王羲之の息子の王徽之が船に乗って都・建康に向かっていたとき、ある晩、岸に船を泊していると、向こう岸に馬車が休止していて、そこから笛の音が聞こえてくるのである。
その曲調、美しく、哀切だが意志強く、ひとの心を大いに打つ。
船中の誰かが、
此桓野王也。
これ、桓野王ならん。
「あの笛は桓伊どのであろう」(桓伊は、幼いころの名を野王といったのである。)
というのを聞いて、王徽之は桓伊とは何の面識も無かったが、
「あの笛は桓伊というひとが吹いているのか」
と深く感じ入り、船に人を使わして、
聞君善吹笛。試為我一奏。
聞くならく、君よく笛を吹く、と。試みに我がために一奏せよ。
「あなたはたいへん笛がお上手と聞きます。どうぞ、わたしのために一曲吹いてください」
と言い伝えた。
このとき、すでに桓伊は高い地位にあり、王徽之よりずっと年上であったが、彼の方は徽之の名をよく知っていた。
「あの王徽之どのか。たいへん風流な御仁と聞く。彼に聞いてもらえるならば、笛を学んだのもムダにはなるまい」
桓伊はわざわざ馬車を下りて床几を整えさせると、
為作三調弄。
ために三調の弄を作(な)す。
向こう岸の王徽之のために三曲を演奏した。
作畢便上車去、客主不交一言。
作し畢(お)えてすなわち上車して去り、客主一言を交えず。
奏しおわるとすぐに馬車に乗って出発してしまい、二人はとうとう一言もことばを交わさなかった。
けれど王徽之は、この演奏を聞いて、後々まで桓伊の人柄を敬愛した、という。――――
「吹笛三調」という成語でございますので、覚える気があったら覚えておいてください。