飲み会。あたま爆痛。頭痛のおさまるマジナイでも無いものか。
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武則天が建てた「武周」の大足元年(701)、李慈徳なる妖術師があって
自云能行符書厭。
自ら、よく符書の厭(えん)を行うと云う。
みずから「わしはお札を書いて不思議な術でマジナイをすることができまする」と喧伝していた。
そのことが則天武后のお耳に入り、宮中に召し出だされたのである。
「では、今宵、術をお目にかけまする」
と李慈徳はにこやかに言上した。
夜更け、多くの宦官や宮女たちが宮殿の廊から見守る中、宮中の中庭で術が行われる。
李慈徳は四方の神々に禱りを捧げた後、かがり火を消させ、燭台のほのかな灯りだけを残させた。
口に呪文を唱えつつ、まず、
布豆成兵馬。
豆を布きて兵馬と成す。
豆をばらまくと、これが小さな馬と、それに騎乗した兵士に化けた。
続いて、杖を取り出し、
画地為江河。
地を画して江河と為す。
地面に線を引いて、それを大河とし、兵士たちをその一方に集めた。
それから、
「ここはみなさまにもご参加願いたい」
と言うて、宦官や宮女たちに竹を配り、これを削って細い竹ひごを作らせた。
李慈徳、その竹ひごを集め、「やっ」と気を入れて地面にばらまくと、豆の変じた兵士たちは馬を走らせて竹ひごを拾い上げ、小脇に抱え込んで
為槍。
槍と為す。
槍とした。
みな、息を飲んでその不思議な状況を見つめている。
「さてさて・・・」
李慈徳は周囲をぐるりと見回した。正面の部屋に御簾を下した一画がある。おそらくそこでは武后とお気に入りの男性がこの状況を楽しんでおられるはず・・・。ここまで無表情に術を進めてきた李慈徳の顏が、一瞬、ほくそ笑むように歪んだ。
「されば、時と所に気は満ちたり。行け、急急如律令!」
李慈徳が指で印を結ぶや否や、豆粒のようであった兵馬は一尺ほどの大きさに変じ、槍を抱えて四方の宮殿内に飛び入って、宦官、宮女らに襲いかかったのだ。
襲いかかったといってもわずかに丈一尺ほど、槍といっても同じぐらいの長さしか無く、膝や足首に傷を負わせる程度のことであったが、
宮人擾乱相殺者十二三。
宮人擾乱、相殺す者、十二三なり。
宮中のひとら大いに混乱し、お互いに撃ち合ってあっという間に十数人が死んだ。
―――――――この時、宮門の外にあった羽林将軍・楊玄基は
聞内裏声叫。
内裏の声叫を聞く。
宮中で騒ぎ、叫ぶ声を聞いた。
「なにごとか!」
と軍士らを率いて宮門に駈けつける。
しかし、宮門を守る衛兵(彼らも宦官である)は、
「夜間に外部の者が入ることは許されぬ」
と槍を構えて楊玄基を押しとどめた。
その間にも宮中での騒ぎは大きくなっているようである。
「あの声が聞こえぬのか・・・。ええい、かまわぬ、突き入るぞ!」
楊玄基、抜刀して衛兵らに斬りかかれば、配下の兵士らもそれに続き、
領兵斬関而入。
兵を領し、関を斬りて入る。
羽林の軍士らを率いて、衛兵を斬り殺し、宮門を破って宮中に突入した。
宮殿内は大混乱の最中で、一尺ばかりの騎馬兵が槍を振り回しながら宦官、宮女らを攻めたて、あちこちで宦官が宮女を踏みつけたり、宮女が宦官を押したおし、その上にまたひとが倒れたり、血が流れ、叫び喚く声が起こっている。
「あの面妖な小さいのは何じゃ? 第一隊を除いて各分隊は、あやつらを片付けよ! まずは主上のおわす宮殿を守れい!」
部下に命じて、楊玄基、ぐるりと見渡すと、一人、道士の姿をした男が中庭にあって、楊玄基らの登場に慌てふためいている様子である。
「あやつは確か今日お召しのあった妖術師、あやかしはあやつの仕業ならん! 第一隊はわしに続け!」
と李慈徳に詰め寄った。
李慈徳、懐よりお札を出して、ひゅう、とばらまけばそれがみな一尺ばかりの兵士となり、楊玄基らの前に立ちふさがって激しく争ったが、
「妖術師ごとき、いかほどぞ」
楊玄基、抜き身のまま引っさげた軍刀を担ぎ上げ、李慈徳めがけて投げつけると、
どすん!
刀はみごと李慈徳の胸を貫き、慈徳は白眼を剥いてその場に頽れた―――
その瞬間、荒らしまわっていた一尺丈の騎馬兵は、突然消滅し、「はらり」と豆となって地面にこぼれ落ちるばかり。
阿鼻叫喚の宮中は、静寂に戻った。
しかし、この間に、
殺閹豎数十人。
閹豎を殺すこと数十人なり。
羽林軍が混乱の中で殺してしまった宦官は数十人にのぼった。
・・・・・その後、李慈徳の背後関係などが徹底的に調べられたが、とうとう黒幕がいたのかどうか、李慈徳自身の経歴も、何もかもまったくわからずじまいであった。
世の人、曰く、
惜哉。慈徳以厭為客、以厭而喪。
惜しいかな。慈徳、厭を以て客と為るも、厭を以て喪わる。
なんと残念なことではないか。李慈徳はマジナイの妖術を以て宮中でも尊敬を受けたが、その妖術を活用しようとして滅びたのである。
と。
なお、武后はこの事件をにくみ、同年十月に年号を長安元年と改めている。
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唐・張鷟「朝野僉載」巻三より。
背後関係も何も無くて、単なるマジナイの失敗、だったのかも知れません。少なくとも張鷟はそう考えていたようである。