けしからぬ。明日は東京で交通機関に影響が出るほどの雪だ! というのに、明日は土曜日なのだ。これほどけしからんことは歴史的だ!
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ということで、今日は歴史的なお話をいたしましょう。
山西(そんたい)の立石県に兄と弟がおった。二人はたいへん貧しく、山の麓の小屋に住み、毎日、山に入って木を伐り山のものを獲てかつかつ暮らしを立てていた。
家に一匹イヌがおったが、このイヌ、どこで色気づきおったか、孕んで
生白犬三足。
白犬の三足なるを生む。
三本足の白いイヌを生みおったのじゃ。
近所のひとびとはみな「白いだけでも不吉じゃに、三本足とはのう」と捨てるように勧めたが、兄弟は肯んじなかった。
その体の不自由であるのがより愛おしいのか、二人ともこの犬をいたく可愛がり、どこに行くにも連れ歩いたのであった。
そんなある日、
有北国二客人、土木形骸、乞丐于其門。
北国の二客人の土木の形骸たる、その門に乞丐する有り。
北方(チュウゴク)ふうの衣服の二人の旅人がやってきた。彼らは土くれのように衰え木のように瘦せて、兄弟の小屋に来て物を乞うたのである。
兄弟は水っぽい粥を恵んで彼らに食わせてやった。
旅人ら喜び、曰く、
我非真是人、乃守財之神也。
我は真にはこれ人に非ず、すなわち守財の神なり。
「われらはほんとうはニンゲンではない。宝を守る精霊である」
と。そして、
「この山には明の将軍・馬騏がこの越南の地から退却するとき、この地で搾取した黄金一千斤・白銀五百斤を埋蔵したのだ。馬騏はその子孫が百年の後にこの財を使えるように、と、一行の中にあった術師に命じて、
使我輩守之。
我輩をしてこれを守らしむ。
われらに財宝を守らせおったのだ。
しかし、今はその約束の百年も過ぎた。われらにかけられた術も解けたゆえ、われらは北に帰ろうと思う。財宝について、これを誰に伝えようかと思っていたが、
今観爾兄弟、真有好心、故吾輩以金穴許之。但得三足白犬以祭之、而後可耳。
今、なんじら兄弟を観るに、真に好心あり、故に吾輩は金穴を以てこれを許さん。ただ、三足白犬を得て以てこれを祭りて、しかる後に可なるのみ。
今、おまえたち兄弟は、実にいいおとこ心を持っておることがわかった。ゆえに、われらはおまえたちに財宝の埋蔵所を与えて行こうと思う。ただ、白い三本足のイヌをどこかで手に入れて、それをイケニエにして祭祀を行わねば、財宝の穴は開かれないことになっておるのだ・・・」
そこへ、兄弟の飼っている三本足の白犬がしっぽを振りながら入ってきた。
旅人らはこれを見、
此実天所以賜爾兄弟也。
これ、実に天のなんじら兄弟に賜らんとする所以ならん。
「なんと! 三本足の白いイヌがここにいるとは。これは天がおまえたち兄弟に財宝を与えようとあらかじめ定めていた、ということなのだろう」
と言って、二人を財宝の埋められた場所に案内し、祭祀の仕方を教えるといずこかに去って行った。
「ふむ。ここで祀りをすればいいのだな・・・くっくっく」
「それだけで財宝が手に入る、というわけか・・・へっへっへ」
くうん?
財宝への欲望に目はすでに眩んでいたから、二人は彼らに懐く白い犬を、旅人たちに言われたとおりに、なぶり殺した。そして、その命の途切れる直前の血を絞り、以て山の精霊を祀ったのである。
すると、
ういん、ういん、ういん・・・・・
腹に響くような音を立てながら
忽見石門析開。
忽ち石門の析開するを見る。
目の前の岩が割れ、そこに入口が現れたのである。
穴から入ると、
見金銀山積。兄弟夜出運之以帰。
金銀山積するを見る。兄弟、夜にこれを出運して以て帰る。
金銀が山のように積まれているのが見えた。兄弟は、他人に見つからぬように、夜になってからこの財宝を家に運び出したのであった。
さて、この時はまさに
莫登庸始僭位。
莫登庸はじめて位を僭す。
莫登庸が帝位についたはじめのころであった。
そこで、
二人懐金一百斤、銀一千斤、因内臣以恭進、為賀新君登極之礼。
二人は金一百斤、銀一千斤を懐きて、内臣によりて以て恭進し、新君の登極を賀するの礼を為す。
二人は黄金100斤と銀1000斤(←埋蔵分より増えているが)を持って行き、おそばの宦官を通じて、新たな君主が即位したのを祝賀する儀礼を以て寄進した。
莫登庸は大いに喜び、兄弟をそれぞれ貴族に列し、郡を治める公爵(「郡公」)に任命した。
二人は公爵の位を得た後、再び郷里に帰り、
大開園宅、営立資産、富敵王侯。
大いに園宅を開き、資産を営立し、富は王侯に敵す。
おおいに庭園を造り、邸宅を建て、資産を運用し、その富は王や大貴族に匹敵するほどであったのじゃ。
めでたし、めでたし。・・・と思いきや―――→以下明日に続く。
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越南・無名氏「聴聞異録」より。
ちなみに本文中の莫登庸は、黎朝の統元九年(1527)恭皇帝の禅譲を受け、明徳と改元して帝位に即いた人物。したがって、上の事件は1527年のことである、とわかりますね。またそれより先、越南は陳朝・重光五年(1413)に明に降り、それより明の直接支配を受けていた。明・宣徳二年(1427)、黎朝の太祖・黎利は明軍を大いに破って国土をほぼ回復し、翌1428年、即位して国号を大越と称し、順天と改元しているので、守財の神が「100年経って術が解けた」と言っているのは、1427年から100年経ったといっているので、これによっても1527年のことである、とわかるのである。科学的資料操作による歴史分析である。
ところで、「聴聞異録」の書は、陳朝以来、越南には「記我国神異之事」(我が国の神異のことを記す)書物が書かれてきたが、著者の時代(おそらく19世紀)にその伝統が途切れてしまうのを惜しんで、ひとびとの話すのを聞きとって、合せて五十一の物語を記録したものだということである。ただし、著者の氏名、精確な年代等はまったく不明。
「聴聞」という言葉を見ると、佐村河内さんが聴力を失ってべーとーべんになったことが思い出されてしまいますね。五年も密着取材して気づかない元TBSのディレクター、とか、少女へのパワハラ、とか、マスコミはどこまで追及し、また自分たちの問題として省みるのか。絶対追及も反省もしないと思いますけど、頬っかむりの恥態もまた見ものでろう。
なお、某掲示板にて
―――聴力を失った後のベートーベンにもゴーストライターがいたと言われており、それに鑑みれば「現代のベートーベン」というのはあながち不当ではない。
という書き込みを見て、科学的歴史分析かも知れないなあ、と感心いたしました。