平成26年2月2日(日)  目次へ  前回に戻る

 

窪徳忠先生「増訂 沖縄の習俗と信仰」(1974東京大学出版会)全748ページをやっと読了。屏風、土帝君信仰、門神、紫微鑾駕、焚字炉、竈神・火神などのオモシロい題材を扱っているのですが、「沖縄の・・・」と言いながら香港、台湾、長崎、神戸などの記述が四分の三ぐらいの本です。でもせっかく読んだので、巻末付録として原文だけ載せられている光緒年間のものという「竈君宝巻」「かまどの神さまの大切な教えの本」←これはいわゆる道教の本ですよ。観音菩薩なども出てきますが)の一部でも引用してみましょう。

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可暁得  暁得すべし  はっきりと知らねばなりませぬ。

竈神与人最相近、在家時刻顕威霊。有求必応無差錯、説与大衆共知聞。

竈神はひとともっとも相近く、在家の時刻、威霊顕かにして、求むる有れば必ず応じて差錯無し。大衆と説きてともに知聞せよ。

かまどの神は人間の生活にもっとも近しい神であり、家におられる期間にはその威厳・霊力は明らかで、祈り求めることは必ず応えてくださって、あやまりや間違いは無い。この点、みなみなさまとよく論じ合って、みんなよくよく知らねばなりませぬ。

どんな霊力があるかと申しますと、

古時節  古えの時節  むかしむかし

明の時代のこと、兪浄意といわれるひとがいた。兪が姓、名は都表、字は良臣、ひと呼んで浄意(こころをきれいにした)先生と。

このひと、十八歳のころに学校で学問し、才は高く学は博く文に巧みなり、と称せられたが、

応試七科皆不中、連生四子未長成、中有一子方八歳、忽然失去杳無音。

試に応ずること七科みな中せず、四子を連生するもいまだ長成せず、中に一子まさに八歳、忽然として失去し杳として音無し。

そののち科挙の試験に七回受けてすべて不合格、四人の子どもができたがみな小さいうちに死んでしまった。最後の一人は八歳のとき、たちまち行方不明になってしまって、どこへ行ったともしれないのだった。

おくさんは子どものことで泣いているうちに失明してしまい、兪先生は生活も苦しく実に心を痛めていた。生活のために塾の先生をしていたが、それではなかなか生活は成り立たなかったのだ。生活の苦しさを訴えて、

年逾四旬禱竈君。

年四旬を逾えて竈君に禱る。

四十を過ぎてからはつねづね竈の神さまにお祈りするようになった。

自ら黄色い紙に願文を書き、何年かが過ぎ去って、来年五十という年の歳の暮れの晦日の晩、妻と苦しい生活を歎いていると、とんとんと戸を敲く音がする。

「こんな時間に・・・。おそらく人間ではない貴いお方であろう」

秉燭迎賓接入内、角巾皀服座中庭。

燭を秉りて賓を迎えて接して入内せしめ、角巾皀服にて中庭に座る。

灯りをとって賓客としてお迎えして家の中に上っていただき、自分は四角い頭巾をつけKい服でかしこまって中庭に座って、お言葉を待った。

すると、お客人は、兪先生のやったことが悪いことばかりだ、と、あれこれそれと数え上げた。特に悪いのは「鬼神について悪口を言っていることだ、イキモノを放してやったり文字を大切にしたりという善行をしていても、そのせいで真心の有無を疑われているのだ」と教える。

客人言う、

汝家中、 なんじの家中  おまえの家では

常煮活物鱔蝦蟹、殺生害命太離経。

常に活物の鱔・蝦・蟹を煮る、殺生し害命することはなはだ経を離れたり。

いつも生きたままでドジョウやらエビやらカニを煮ているが、生きものを殺し命をそこなうのは教えに乖くことたいへん甚だしい。

おまけに

生徒輩  生徒輩は   塾の生徒たちは

糊窗裹物用字紙、不知禁止任飄零。

窗に糊し物を裹むは用字の紙、禁止を知らず飄霊に任す。

神聖なモノである「文字を書いた紙」を窓の障子紙に使ったり、物を包むのに使っているというのに、おまえさんはそれを禁じることもせず、ぼろぼろになっていくのを見て見ぬふりじゃ。

これでは、やっていることに実は無く、善人とむなしく称しているだけではないか。

若不速改従前過、天罰将至有禍臨。・・・・言畢走進忽不見、兪公方知是竈神。

もし速やかに従前の過ちを改めずんば、天罰まさに至り禍い臨む有らん。・・・・言い畢わりて走り進みて忽ちに見えず、兪公まさに知るこれ「竈神」なるを。

もしすみやかにこれまでの過ちを改めないならば、天罰がまさに至って、より大いなる災いがやってくるじゃろう」・・・と言い終わると、そのひとは走り逃げて姿を消してしまったが、兪先生にはこれは「かまどの神様」だ、とわかった。

そこでこれまでのやり方を改め、日に大士観世音の名号を百千回もお唱えし、一言一動、心のはしばしまで神さまが見ていると思って純粋にし、一の雑念も起こらないように努めた。

如是三年年五十、進京郷試得成名、次年連捷成進士、一挙登科天下聞。

かくの如きこと三年、年五十、進京の郷試に成名を得、次年連捷して進士と成り、一挙に登科して天下に聞こゆ。

こんなふうにして三年努力し、五十いくつのとき、進京で行われた一次試験で合格し、翌年の中央試験にも連続で合格してついに進士となって、その名は一度に天下に知られたのである。

役人に任官して、ある日、楊内監(←高位の宦官である)の家にお邪魔したところ、その継嗣だという青年が現れて取次をしてくれたが、そのひとをよくよく見て驚いた。いなくなった子どもにあまりに似ていたのだ。楊内監に問い合わせると、まさにその年のその日に、空から鳥が運んできた子どもだと判明し、両家の継嗣と認め合った。

その子が故郷に還ってみれば、おくさま喜び目が見えるようになり、やがて孫も七人できた、孫らはみんな文字と学問が大好きに育った。

兪公改過得善報、享寿八十有八春、遇竈神記親手写、一直伝説到如今。

兪公改過して善報を得、寿を享くること八十と八春有り、竈神に遇するの記、親(みず)から手写し、一に直伝して説きて如今に到れり。

兪先生が過去のあやまちを改めて善い報いを得、さらに長生きもして八十八歳の春になって、かまどの神さまにお会いできたことを自ら記録の文章にした。今にいたるまでその直筆本がのこっていて、そのことがよく伝わっているのである。

・・・・・・・この一事だけでもひとびとみなわからなければならないであろうが、ほかにもまだまだ実例がある。

次に、本朝(清代)の陳達忠、四川西安県のひとであるが、乾隆辛酉夏五月のこと・・・・・・・・・・・

このあとにも、大邑県のひと黄復興のこと、灌県の陳光遂、金堂県の郭思洪などなどなど、竈神を信仰したために災いを避けシアワセを得ることが出来たひとたちのことが次々と明らかにされていくのでございますが、明日が近づいてきましたので、ここまでといたしとうございます。

―――え? なんだと、成功のためのマニュアルみたいなものか? かねもち○さんとかの類ならタメになるな。

―――資格とは関係無さそうだけど、将来への投資になるなら知りたいね。

―――シアワセを得ることができる方法があるなら教えて。だってワタシ、シアワセになる権利があるの。

と、珍しくわさわさとみなさんが寄ってきたぞ。

でも、おしまい。

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明日は節分。オニはお外なの。でも、その節分の日にどうしておいらのようなコドモ的なニンゲンが鬼だらけの会社に行かないといけないのか。かわいちょうだなあ・・・。

 

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