見えるひとには、見えないいろんなことが見えているそうである。
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六朝の時代、会稽の令であった朱宗之というひとは、亡くなった人の棺を見るたびに
「またアレがいるなあ・・・」
と呟くのであった。
「アレ、とは何ですか」
答えて曰く、
常見亡人殯、去頭三尺許、有一青物。状如覆瓷。
常に亡人の殯を見るに、頭を去ること三尺ばかりに、一の青き物有り。状、覆瓷の如し。
「亡くなったひとのなきがらを見ると、いつも頭から一mほど離れたところに、何やら青いモノがふわふわしているのが見える。それは伏せた甕のような形をしているのだ」
こんな形ですかね → Ω
人或当其処則滅、人去随復見。
人、あるいはその処に当たればすなわち滅し、人去れば随いてまた見ゆ。
生きた人がソレのふわふわしている場所に立つと、ソレは目に見えなくなってしまう。だが、人がその場所から移動するとまた見えはじめる」
それから彼は断言した。
凡屍頭無不有此青物者。
およそ屍頭にこの青き物の有らざる者無し。
「人間の亡骸であってこの青いモノが引っ付いていないもの、というのは有りえない」
と。
また、
「幼いころは、誰にでも見えているのだと思っていたので、わたしがソレの話をしたときに、ほかのひとが眉を顰めたり不安そうな目つきでわたしを見ている理由がわからなかった」
とも言っていた。
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南朝・劉義慶「幽明録」より。
見えないものが見えてしまうと却って困る、ということも大いにあるようです。畢竟、凡人の方が凡人の中ではより暮らしやすいものと思われる。