「ひひひ」「へへへ」「ぐへぐへ」―――
明日からはじまるシゴトハジメの恐怖で肝冷斎たちの多くは狂ってしまっています。自ら○を選んだ者も何人かいるようです。
あわれなる肝冷斎たちに、明日からのシゴトに役に立ちそうな箴言を贈ってあげましょう。
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嘴上無毛、為事不牢。 ・・・ @
嘴上に毛無ければ、事を為すも牢ならず。
口のまわりにヒゲをたくわえているぐらいでなければ、何をやってもしっかりとはできない。
若い者や下位の者のやることはあてにならない、という意味のようですよ。
「官場現形記」巻十五で、居もしない匪賊を討伐に来た政府軍に掠奪・強姦の限りを尽くされた人民たちが、二人の武進士(休職中)と村の長老たちを代表に、県知事の荘大人に訴え出ますが、このとき荘知事は
「被害は賠償するし、犯人は処罰する」
と宣言したので人民たちは大喜び。
荘知事は人民たちを役所に残して、軍を率いている胡統領のもとに行き、人民の訴えを伝えた後、「彼らをうまく捌いたら自分の二人のムスコが官位に就けるように推薦してほしい」旨の要請をして役所に戻った。
そして、人民たちに対しては、
「軍の胡統領から賠償と犯人処罰の約束をもらってきた。ついては、犯人を特定して欲しい」
と伝えたのである。
よその郡から来た軍である。人民どもは誰も犯人など特定できない。
すると、知事は大いに困ったふうをして
「犯人が特定できないのでは、自分は胡統領に正規軍の兵士を誣告してしまったことになる。どうしてくれるのだ!」
と、かえって人民たちを責めたてはじめたのであった。
まず二人の武進士に対して、
「おまえたちは国の法律を守らねばならない立場にありながら、軍人を誣告することになる騒ぎに手を貸すとは何事か」
と怒鳴りつけ、長老たちには上記の@の箴言を口にした上で、
「世の中のことをよくお知りのあなたがたは、まさか犯人の特定もできないのに掠奪・強姦の罪で軍を訴えることができるなどお考えではないでしょうな」
と言い、長老たちを黙らせてしまう。
荘知事は、さらにあれこれと武進士や長老たちや人民どもを脅しすかして、結局賠償も処罰も無しにして、わずかな見舞金と引き換えに、
「自分たちは匪賊のせいで大被害を受けた。それを救ってくれたのが胡統領の部隊であった。どうか篤く恩賞を差し上げてほしい」
という旨の皇帝への嘆願書を書かせることに成功した―――
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只准州官放火、不許百姓点灯。 ・・・ A
ただ州官には放火を准(ゆる)すも、百姓には点灯を許さず。
地方官吏が放火をしてもお構いなしだが、人民には(税の取り立てを厳しくして)灯りをつけることも許さない。
「官場現形記」の第十三回で、胡統領の幕僚で金持ちの文七爺の所有物が盗まれました。
続く第十四回で、濡れ衣を着せられた船娼の蘭仙という少女が拷問されて自殺しましたので、この女が犯人だったということで荘知事から文七爺に報告してこの問題は終わったのですが、盗品は出なかった。
第十五回では、とある「捕快」(我が国の「岡っ引き」に当たる)が別件を追っているうちに、
―――真犯人は最近急に金回りのよくなった武官の魯総爺(中隊長、ぐらいでしょうか)ではないか
と目星をつけて、知事にその旨を報告した。
のですが、荘知事は上のように人民たちの請願をうまく処理した直後で、胡統領に二人のムスコのことを宜しく頼んだ後でもあり、
「すでにカタのついている事件を掘り返して面倒なことを起こすな。特に胡統領の部下である下級武官が犯罪を犯していた、というのはマズイのだ」
と叱られます。
そこで家に帰ってきて、不貞腐れて粥を食いながら口にするのがAの箴言である。
すばらしい。美しい。自然主義的箴言として屈指の素晴らしさです。
「捕快」は上記のように呟きながらも、おえらがたの鼻が明かしたくなって、変装して魯総爺の下男となり、ついに動かぬ証拠をつかんだ―ーーのですが・・・。
なお、魯総爺はもともと「捻匪」(清末に華北に起こった宗教的反乱運動)であったが、官軍に帰順して官位を得た人なので、文字は書けないらしい。
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まだまだ立派な箴言があります。が、不安により狂乱状態に陥り、ピイピイ泣いているような肝冷斎どもにこんな素晴らしいことを教えてもコナし切れないと思われますので、本日はここまで。
なお、「官場現形記」は、清・江蘇のひと李伯元(伯元は字で、名は宝嘉)の著。李伯元は、同治六年(1867)の生まれ、少年時代は神童の称あり、地元の学校に合格して「秀才」の地位を得たが、その後科挙を数次受験して果たさず、上海に出て「指南報」等の新聞に拠って、ゴシップ記事や雑文を書き続けた。多くの筆名を使って書き続けていたので、今となっては彼の文筆活動の全体を俯瞰するのは不可能だと言われる。
「官場現形記」六十回は彼が編集していた「上海世界繁華報」に連載して、当時のシナの官界、軍人、あるいは法律家や市井にたむろする顔役、ブローカーたちの腐敗と、彼らに支配された人民たちの惨状を軽妙な筆致で描き出して興味尽きない小説である。
ただし、伯元は第五篇(48回)を書いたところで光緒三十二年(1906)に四十前に死んでしまいましたので、最後の10回ほどはその友人が書き足したのだという。