今日も寒い。
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昨日の続き。
・・・さてさて、聖者が月の光の下、
「もしもわたしが世俗の権力者となったとしたら、どうであろうか」
と心に思惟した、そのとき、
「うっしっし、聖者たま、はじめまちてー」
と森の中に童子が現れたのであった。
月光の下、童子は言うた。
世尊如是善逝可得作王不殺生、不教人殺、一向行法不行非法。世尊今可作王必得如意。
世尊、かくの如く善逝、得て王と作りて殺生せず、人をして殺さしめず、一向に法を行いて非法を行わざるを得ん。世尊、今、王と作らば必ず意の如きを得べけん。
「世にも気高き聖者さま、たいへんな能力者でいらせられるお方でありますから、世俗の権力者となられましたら、自ら誰をも殺すことなく、また、誰ひとりとして他人を殺すような事態に陥らせることもなく、ひたすらにあるべき政治を行うて、あってはならない政治は行わない・・・そういう社会を築くことができましょう。
世にも気高き聖者さま、今あなたが世俗の権力者となれば、思い通りの世の中にすることができるにちがいありませんよー」
なんと、童子は、聖者がさきほど心にふと思っただけのことを察知して、その世俗権力者たらんことを勧めに来たのである。
いやー、すごいコドモだなあ。人の心を察知することができるだけでなく、いい世の中を作るために聖者さまに進言もするとは。
ところが、聖者はこの童子のことばを聞くと、心に次のようにお思いになったのである。
悪魔波旬欲作嬈乱。
悪魔波旬(あくまはじゅん)の嬈乱(じょうらん)を作さんと欲するなり。
「波旬」(はじゅん)は梵語の「パピヤス」の音訳で、悪魔の一種、「殺す者」の意であるという。「嬈乱」は「擾乱」と同じ。「騒がせ乱す」。
―――悪い魔物が世界を混乱させようとしているのだな。
そして、静かに口を開いておっしゃられた。
汝魔波旬、何故作是言作王、世尊作王善逝可得如意。
汝、魔波旬、この「王と作れ」との言を作し、世尊の王と作らば善逝にして得て意の如かるべし、とするは何故ぞ。
「おまえ、魔ものよ。「世俗の権力者となれ」と言うて、世にも尊い聖者が世俗権力者となればなにごともうまく行き、思いどおりの世の中にすることができる、と勧めるのはどういう風の吹き回しなのか」
なんと!
聖者さまは、こんなコドモを「悪魔・魔もの」と呼んだのです。コドモの心は傷つくでしょう。ひどいことだ。
ところが、この童子は本当に悪魔が化けたものであったのだ。
「うしー。おいらが魔波旬である、と何故おわかりに・・・。さすがにござりまちゅるな。実はわたくし、
若四如意足修習多、修習已欲令雪山王変為真金、即作不異。
もし四如意足を修習すること多ければ、すでに雪山王をして変じて真金たらしめんと欲すれば、即ち作して異ならざるを修習せん。
「如意足」(にょいそく)というのは、聖者や魔物の持つ超能力で、他人の意志を自由に操ること。それには四種類あるという。「雪山王」は巨大なヒマヴァンタ山のこと。今のヒマラヤ山脈である。
四種の人心操縦能力を習い修めることが十分であれば、ヒマヴァンタの山々をすべてまことの黄金に変化させようと意欲なさりますと、ただちにそのように変化させることも可能になると聞いております。
聖者さまはすでにその「四如意足」を十分に修め習うておられますから、ヒマヴァンタ山を変じて、巨大な黄金の塊にすることも思いのままにござりましょう。
さればわたくしは申し上げたのでござりまちゅ、
世尊作王。世尊作王善逝可得如意。
世尊、王と作れ。世尊王と作れば善逝得て意の如くなるべし、と。
世にも尊き聖者さま、どうぞ世俗の権力者とおなりください。聖者さまが世俗の権力者となれば、すべてがうまく行って、思い通りになっていくにちがいありません、と。
うっしっしー」
聖者は答えておっしゃられた。
波旬。我都無心欲作国王。云何当作我亦無心欲令雪山王変為真金、何由而変。
波旬。我、すべて心に国王作らんと欲すること無し。いかなれども、我を作して亦雪山王をして真金に変じ為さしめんと欲する心無しとすべし。
「悪魔よ。わたしには国王になろうという気持ちなどほんの少しも無い。また、ヒマヴァンタの山を変じて、巨大な黄金の塊にしようという気持ちも全く無いのだよ」
そして、聖者は歌われた。
正使有真金、如雪山王言、 まさに真金を有らしむること、雪山王の如しと言うも、
一人得此金、亦復不知足。 一人のこの金を得れば、またまた足るを知らざらん。
是故智慧者、金石同一観。 この故に智慧者は、金と石を同一と観るなり。
ほんとうに、巨大な黄金の塊りのヒマヴァンタの山ほどもあるものを出現することができたとしても、
あるひとがこの黄金を自分のものにしたら、そのひとはさらに欲しいと思うだけだ。
だから、智慧のある者は、黄金に価値を置かず、石くれと同じようにみなすのである。
この歌を聞くと、悪魔の童子は、
沙門瞿曇已知我心内。
沙門・瞿曇すでに我が心内を知れり。
「うわーい、この修行者・ガウタマさんは、おいらの心のうちまでお見透しなのでちたー!」
と気づき、
「ごめんなちゃい、ごめんなちゃい・・・・・」
懐憂感即没不現。
憂感を懐きて即ち没して現われずなりき。
敗北感をいだき、しおしおとその場で姿を消してしまった。
のであった。
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南朝宋・求那跋陀羅訳「雑阿含経」巻三十九より。
おもちろかったかな? もちろんこの「聖者」はシャカ氏のガウタマ(聖者)・シッダールタさんでちゅう。この波旬の意図を喝破したのは、まだ成道(悟りを開くこと)直後のことと伝えられる。おもしろくなくても、「聖者も悪魔も何かちょっとボケが入っているなー」と思ったとしても、聖者の唱えた「金石同一観」という偈語ぐらいは覚えておきましょう。三途の川の試験で出るかも。(←資格試験か婚活・就活に役立つ、といわないとみなさん勉強しませんからねー)
今週は寒かったし、おもてのしごともつらかった。しかし明日から休めるみたいなので、おいらはすごいゴキゲンでちゅう。金・石も同一に見えるほど心が豊かになっているぜ。