金曜日。よくぞ今日まで耐えた。来週はもうどうでもいいや。
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昨日の続き。
追放されて十三年経ったある日。
喰人王はふと、自分はかつて「王」と呼ばれていたことを思い出した。ただし、それがどんな地位の者であったかなど思い出せはしない。ただ、「王」であったときは、食べるモノを手に入れるのにこんなに苦しまなかったような記憶がある。その薄明のような意識の中で、
―――そうだ。「王」というものを食ってみたい。
と思ったのである。
・・・・・さてさて。
そのころ、十三年前に選ばれて王位についた賢く善良な王さまは、しあわせに国を治めておりました。
その日は、気持ちのいい朝でございましたから、
「よし、今日は水浴びをしようではないか」
と申されまして、涼しげな泉のほとりにて数多くのお妃たちと水浴びの戯れをするために、行列を整えて宮門を出たのでございます。
門を出たところで、
逢一道人、説偈求乞。
一道人の偈を説き乞を求むるに逢う。
一人の修行者が、ありがたい言葉を告げて物乞いをするのに会った。
修行者は
「王さまによいことがありますように。そしてわしに下されるものがありますように」
とありがたい言葉を告げた。
王さまは
「ありがとう、修行者よ。そのありがたい言葉の代わりにお前に有益なモノを恵もうと思う」
と言いまして、
「しかし、これから妃たちと水浴に行き、楽しい日を過ごすつもりであるゆえ、
還宮当賜金銀。
宮に還りて、まさに金銀を賜うべし。
王宮に戻って来てから、黄金と白銀を与えようと思う。
しばらく待っていてくれ」
と言いまして、修行者を王宮の中に休ませたのでございました。
そしてまた行列を整え、ゆるりと美しい泉のほとりに着いた。この地で王さまは美しいお妃たちとともに半裸になりまして、戯れながら水浴しておりますと、そのときのこと―――。
お昼前に空はにわかにかき曇り、何やら不吉な風が吹いてなまぐさく不快な臭いが立ちこめはじめた。
空に、二枚の翼をはためかせながら、夜叉・羅刹のごとき怖ろしげで醜い姿の喰人王が現れたのである。
「なにものだ」
「怪しげな化け物め」
「王とお妃たちをお守りせよ」
と勇敢な護衛の兵士たちは、みな槍を手に、弓には矢をつがえて空を見上げた。
善良王は兵士たちに守られながら、空の喰人王に向かって呼びかけた。
「あなたは何ものであるか」
喰人王は言う、
「わしは最果ての曠野に住んで、人を食らう者だ。このたび、「王」というものを食うてみたくなってここまで飛んできた。ひっひっひ、おまえが王というものか」
喰人王は地上に舞い降りて善良王を攫おうとしたが、勇敢な兵士らがその間に入って善良王に近づけない。
「けっ、おまえらではない、わしは「王」というものが食いたいのじゃ」
喰人王、空中に戻って善良王をにらみつけた。
善良王はなんともいわれぬ優しげな目で喰人王を見つめている。
不恐不怖、顔色如故。
恐れず怖れず、顔色もとの如し。
何の恐怖も無く、普段どおりのやさしげな顏である。
喰人王、その醜い顏をさらに歪めて、
「けっ。家来に守られて安心・安全ということか」
と吐き捨てると、善良王は一歩進み出て、
人生有死、物成有敗、合会有離、対来分之、不敢愁也。
人生じて死有り、物成りては敗有り、合会には離有り、対来これを分ず、あえて愁えざるなり。
「人間というものは生まれたらば必ず死ぬものです。物体というのは形をなせば必ず壊れるものです。一緒にいるものはやがて別々になり、出会ったものも分かれていく。それなのに、どうしてわざわざ心配をする必要がありましょうか」
と言うた。
「けっ。それならおれさまに食われるためにそちらから出向いて来てもらいたいもんだぜ」
善良王、平然と答えて曰く、
「なるほど。あいわかりました」
と。
「な、なに?」
「ただし、
旦出宮時、道逢道士、為吾説偈、即許施物、今未得与。以是為恨耳。
旦(あした)に宮を出づる時、道に道士の吾がために偈を説くに逢い、即ち施物を許せるに、今いまだ与うるを得ず。ここを以て恨みとなすのみ。
今朝、王宮を出てくるときに、道端でわたしのためにありがたい言葉を告げてくれた修行者がおり、彼にその場で施しものを与えることを約束したが、その約束をまだ果たしておりません。それだけが気がかりじゃ。
城に戻って修行者に布施を与える時間だけくれまいか」
「ふん? ははは、やっぱり怖気づいたか・・・。まあいいや、どうせここでは兵士どもに取り巻かれたおまえを攫うことはできそうにない。
与汝七日期。
汝に七日の期を与えん。
おまえには七日だけ時間を与えてやろう。
ただし、七日を過ぎたら、必ずお前の方から食われに出向いてくるのだぞ。
もし怖くなって王宮に閉じこもっていても、
吾往取汝亦無難也。
吾往きて汝を取ること、また難きこと無し。
わしの方から行っておまえをかっさらうのも別に難しいことではないがな。
そのときは、おまえにウソつきの名を負わせた上で、生きたまま食ってやるぜ。ひっひっひっひ」
喰人王は勝ち誇ったように嗤うと、翼をはためかせて最果ての曠野に帰って行った。
善良王は王宮に戻ると、心配する内外のひとびとをなだめ、
開庫蔵、布施遠近。拝太子為王、慰労百姓、辞決而去。
庫蔵を開き、遠近に布施す。太子を拝して王と為し、百姓を慰労して、辞決して去る。
倉庫を開いて、近い人、遠くの人、あらゆるひとびとに貯わえてあったものを賜与した。そして王太子を即位させて自ら拝礼し、人民たちにねぎらいの宴を設け、別れの言葉を告げてひとり王都を去った。
・・・・・・七日目。
最果ての曠野の岩窟で、その日も名も知れぬ賤しいケモノの骨をしゃぶっていた喰人王は、荒野の向こうから、善良王がやってくるのを目にした。
「あれは・・・。やつは本当に来たのか?」
喰人王遥見其来、念曰、此得無異人乎。従死得生、而故来還。
喰人王、遥かにその来たるを見、念じて曰く、「此れ人に異なる無きを得んや。死より生を得、しかるがゆえに来たり還るは」。
喰人王は遠くから善良王の姿を見て、心に思うに
「この方は、ふつうの人ではないのではないか。死にそうだったのに生を得たのだ。それなのにまたここにやってくるなんて・・・」
そして、善良王に声を張り上げて言うた。
「善良なる王よ。
身命、世人所重愛者也。而卿舎命所信。世之難有。不審何守志趣。願説其意。
身命は世人の重く愛するところのものなり。しかるに卿は信とするところに命を舎(す)つ。世にこれ有りがたし。何ぞ志趣を守るや審らかならず、願わくはその意を説かんことを。
命は世の中のひとびとの重視し惜しむところである。それなのに、あなたは信頼を守ろうとしてその命を棄てようとしている。この世にめったにあることではない。どうしてそんな強い気持ちを保てるのか、わしにはわからぬ。どうか、あなたの思うところを教えてもらえぬか」
善良王、答えて曰く、
吾之慈施、至誠信盟、当得阿惟三仏、度十方。
吾の慈施し、至誠にして盟を信にせば、まさに阿惟三仏の十方を度するを得べし。
「わたしが慈愛の心を以て施しを行い、誠実に約束事を必ず守れば、必ずやアビサンブッダが東西南北、東北・東南・西北・西南の八方向、及び上と下、合せて十方向に広がる世界のすべてを御救いくださるときに、ともに救われると知っているからでござる」
と。
「その世界のすべてを救ってくださる「ブッダ」というものはなんであろうか」
「その方は五戒を説き、十善に導き、四種の無量心と六種の菩薩となるための修行をお教えくださる方だ」
「その方はこのわしでも救ってくださるのであろうか。この、人肉を食らい、自らの苦しみ・憎しみ・詛いに縛られてかくのごとく変化したこのわしでも」
「もちろん、御救いくださる」
「おお」
喰人王は歓喜せり。
「喜びで今、わしは震えているぞ。これは・・・この、目から出る水は、なんじゃ?」
喰人王はその目に涙を流していたのである。
そして
従受五戒、為清信士。
従いて五戒を受け、清信の士と為れり。
善良王のみちびきによって五つの戒めを教えられ、出家修道者となったのであった。
善良王は喰人王であった出家者を連れて王都に戻った。そして、彼のために精舎(お寺)を設け、この精舎を「かつての喰人王の住持するお寺」として、「王舎」(王の居所)と名付けた。
従此以来、号言王舎城。
此れより以来、号して王舎城と言えり。
これゆえにそれ以来、この王都を「王舎城」と呼ぶようになったのである。
「王舎」はヒンドスタンの言葉で「ラージャプトラ」という。はるかなはるかな後の世において、この町に一人の聖者が至り道を説いたので名高い。そのひとこそ、シャカ族の聖者・ガウタマ=シッダールタ、釈尊そのひとにあらせらる。
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後漢・失訳「雑譬喩経」より。
今日はばんめしに、食い物の中の食い物、メシの王さまともいうべき「王将の餃子」の定食を食った。うまかった。涙出た。