文化の日、だというので文化的に過ごそうと思いまして、18世紀の前半に江戸の石上宣続という人が書いた「卯花園漫録」を読んでみた。
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その「緒言」(「はじめに」)にいう、
夫街談巷説、心有可采。
それ、街談巷説、心に采るべき有りとす。
まああれだ、街中で話されている話や、辻々で囁かれる噂には、実際にはなかなか重要なことがあるのではなかろうか。
わたしは少年時代から読書するのが好きで、以来この年になったわけだが、家が貧乏なので書籍が少ない上に、この頭の悪さである。
昧昧然百不記一、随又遺忘。
昧昧然として百に一も記さず、随いてまた遺忘す。
あたまはくらくらしたままで、百のうちの一つも覚えていない上に、覚えたはずのことはすぐに忘れてしまうという状態だ。
・・・すごく身につまされますね。
なにごとも知識無く、まるで井戸の底のカエルのように世界のことを知らないのだ。
そこで、ある時期から、本を読むたびに、重要そうなことがあるとメモするようにしました。
それが何巻分か集まったが、鶏肉の骨(←「雞肋」をこう訳してみた)みたいに味わい深いところもあるのでなかなか捨てられず、自分の家の「秘密の箱」の中に仕舞ってあった。
わたしは燕や雀のような下らぬ輩である。その下らぬ輩の考えなど世の中にお見せできるようなものではない。おまけに「表のシゴト」(←この人はおそらく下級幕臣)が忙しくなり休みもあまりとれなくなったので、筆や硯を取り出すのもめんどうくさい、という日を過ごしていた。
さきごろ、幸いにも多忙な職から遷されて閑ができたので、「秘密の箱」から取り出して、これまでの書き物を閲覧し直した。
そうしたら、
驚顫錯愕。不知所云。
驚き顫(ふる)え、錯愕し、云うところを知らず。
びっくりし、ぶるぶる震え、錯誤し愕然として自分がイヤになって、コトバも出てこないほどであった。
というぐらい内容がひどく、間違いも多く、恥かしい。五尺の童子の話のようである。知識人のみなさんはてのひらを叩き、腹を抱えでのけぞって大笑いするであろう。食事中ならメシを噴き出してしまうであろう。
しかしながら、細川藤孝が言っております。
凡学問如頭陀袋。尽蓄己乃採善。
およそ学問は頭陀袋の如し。ことごとく己れに蓄えて、善を採れ。
「だいたいのところ、学問というのは「頭陀袋」を一つひっさげているようなものだ。そこいらで知ったことはその頭陀袋の中に放り込んで自分のモノとし、必要なときにその中でいちばんいいものを選び出して使うのだ」
と。
なかなかしっかりした言葉ではなかろうか。
そこで、耳に挟んだおふざけのような噂、目に触れたたわむれのような議論、そんなものをまとめ直して、博覧のために供しようと思う。みなさんが手を加えて修正してくれれば、大いにありがたいことである。 ・・・云々。
これはためになりそうですよ。
巻一、第一章に曰く、
人の心は水のごとくなるものにて、常に静かならんことを欲して、清静に澄まし習はば、やがて清くも閑にもなりて、塵埃を厭はしうおもふ気至る。
ところが、心を好き放題にしていれば、外には六つのみだりがわしきこと、というワナに罹り、内には七つの欲情のいましめに苦しめられ、心はしばらくも静かにならない。
子を思ひ妻を愛し、貧を歎き欲に迷ひ、種々の業をなして、ついに大いなる身の仇をなす。これ、みな、おのれの心より生まるといふ事を知らず、天より降る災ひとおもひ、他のあたへたる愁ぞとおもふは、ひとへに愚痴の至り也。
よき事もあしきもをのが心から皆為すことぞしらぬおろかさ
(よいことも悪いことも自分の心がけのせいであるぞ、そのことを知らないのはバカだなあ)
と書いてあります。
しかし「いいこと」が書いてあるのはこの章だけで、あとは菊の別名とかボタンの別名とか銭の名前とか下らんことばかり。
いやー、これはタメになるわー。
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なお石上宣続は嘉永三年(1850)に四十六歳で亡くなった、ということです。
日本シリーズも終わった。今年ももうおしまいだし、わしももう毎日毎日、びっくりし、ぶるぶる震え、錯誤し愕然としてイヤになるこの人生のおしまいにするか。