平成25年9月26日(木)  目次へ  前回に戻る

 

今日はうまいうなぎを食った。うなぎおいしうございました。しかも妙齢の女性と。わっはっはっは・・・。ああ、樹木になってしまった肝冷斎にも食わせてやりたかったなあ。

しかしよく考えたらまだ明日も会社である。つらい。社会に耐えられない。はやくおうちに帰りたい・・・。

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子曰、士而懐居、不足以為士矣。

子曰く、「士にして居を懐うは、以て士と為すに足らざるなり」と。

先生がおっしゃった。

(1)士(さむらい)のくせにずっと生まれたところで暮らしていたいなどと思うようなやつは、それだけでもう士(さむらい)とするわけにはゆかぬであろう。

「論語」憲問篇より。

ただし、上の解釈は、劉宝楠「論語正義」呉英「経句説」なる書を引いて、

士初生時、説弧於門左、為将有事於四方也。膂力方剛、経営四方、士之志也。若繋恋所居、乃偸安而無意人世者、故孔子警之。

士の初めて生まるるの時、弧を門の左に説(もう)けて、まさに四方に事有らんとせんとするなり。膂力はじめて剛ならば四方に経営するは士の志なり。もし居るところに繋恋せば、すなわち偸安して人世に意無き者、故に孔子これを警(いま)しむ。

(古代の都市自由民階層である)「士」(の家で、おとこの子)が生まれたときには、その家では門の左側に弓を掲げるものであった(、と「礼記」に書かれている)。これは、その子が成長すれば、四方に出かけて何かを為そうとする者である、ということを表明しているのであった。大人になって筋肉の力が一人前になったら四方に出かけて何事かを為すのは、「士」の目指すところである。

もしも生まれたところに愛着していつまでも離れられないのであれば、そいつは安逸を盗んでニンゲンの社会に何の利益ももたらさないやつであるから、孔子はそんなことが無いように戒めたのである。

とあるのに基づき、「居」を「生まれたところ」すなわち「郷里」と解釈して訳したもの。

一方、朱子「論語集注」

居、謂意所便安処也。

「居」とは、便にして安く処るのところの意を謂う。

「居」というのは、快適で安らかに過ごせる場所のことである。

と言ってますので、これに基づいて訳してみると、

(2)士(さむらい)のくせにずっと快適で安全なところで暮らしていたいなどと思うようなやつは、それだけでもう士(さむらい)とするわけにはゆかぬであろう。

ということになります。

ほかにもこの「居」は「衣食住」の「住」のことだ、という説もあります。程樹徳「論語集釈」に引く「反身録」に、

居天下之廣、居則随遇而安、必不縈念於居処、以至飲食衣服之類。

「天下の広に居る」とは、居はすなわち遇うままに安く、必ず念を居処に縈(まと)わらず、以て飲食衣服の類に至るなり。

(「孟子」に)「(大丈夫(立派なオトコ)は)天下の広大な中に居る」と言うことばがあるが、そのような心もちであれば住むところはどんなところでも安らかになるのだ。絶対に住むところについてあれこれ考えないようにすれば、飲食や衣服についても何も気にならなくなるのだ。

といっているので、これに基づけば、

(3)士(さむらい)のくせに住むところのことを気にかけるようなやつは、それだけでもう士(さむらい)とするわけにはゆかぬであろう。

となりますよ。

ああ、いったいどれが正しいのであろうか。

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と、文字の解釈に拘泥してしまいました。拘泥斎でございます。

さて、みなさんはどれにしますかな。わしはずっと(3)の解釈で来ているので、今も部屋が汚ければ汚いほどニンゲンとしては立派なのである、との認識は変わっておりません。

なお、本日楽天初優勝。例えば田中将を思えば、大阪で少年野球をして、高校で北海道へ行って、今東北で剛腕をほしいままにする。次にはアメリカ大陸に行くのであろうか。士(野球選手)にして居を思うでは困りますわ。N○Kや○日新聞はいまだ「野球留学」を肯定的にとらえられぬようですが。

 

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