だめだだめだだめだー。ウツと頭痛で長い漢文読めません。「小説」なんて読もうとしても二行ぐらいで目がくらくらしてくるので、短く。
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人謂、胸中自具丘壑、方可作画。
人は謂う、「胸中自ずから丘壑を具うれば、はじめて画を作すべし」と。
ほかの人がいうことには、
「胸の中にはおのずと山と水がそなわるようになってから、はじめて(山水)画を描くことができるようになるのだ」
と。
「丘」は山中の尾根、「壑」は溪谷のことであるから、「丘」と「壑」で「山」と「水」になるんです。
これに対して、
余曰、方可看山、方可作文。
余は曰う、「はじめて山を看るべく、はじめて文を作るべし」と。
わしはいう、
「(画だけではない、胸の中にそういうのがそなわるようになってから)、はじめてホンモノの山水をみて味わうことができるようになるのだし、はじめて文章が書けるようになるのだ」
と。
以上、明・呉従先「小窗自紀」より(62則)。
「へー。そうですか」
と頷いておけばいいや。
と思って頷いて放っておいた。放っておいたのは、本につけたメモを見ると平成22年の5月ごろのようである。
ところが、世の中にはこんな言葉からもいろいろ考えて人生の教訓にしてしまう人がいるようです。
現代の郭征帆という人の「評語」(中華経典随筆「小窗自紀」中華書局2008.9)によれば、
・・・杜甫は「望嶽」(「嶽を望む」(泰山を遠くから見た))という名高い詩の中で、
会当凌絶頂、 まさに絶頂を凌ぎ、
一覧衆山小。 衆山の小さきを一覧せん。
あの山のいただきまで登ったら、
(ここからは高く見える)ほかの山はみんな小さいので、それらが一望のもとに見渡せるであろうなあ。
とうたっている。
清の浦起竜は「読杜心解」(杜甫の詩を読んで心で解釈する)という書物の中でこの一節を解して、
杜子心胸気魄、于斯可観。
杜子の心胸・気魄、ここに観るべし。
杜甫大先生の御心、胸のうち、気迫・根性、すべてがこの二句に現れているですぞー!
という。
杜甫は山に昇らなくても、胸のうちに山水があったのでこのようなすばらしい、人生に積極的な意義を与えるような詩ができたのである。胸中に丘壑を具えることは重要である・・・・云々。
・・・・・だそうですから、みなさんも具えておいてください。おいらも目を閉じて自分だけの世界に行ってしまうことにします。