平成25年8月30日(金)  目次へ  前回に戻る

 

本日は大先輩の送別会にて二次会まで。予想通り頭痛がひどくなってきました。こんなに痛いんなら、もう頭なんか要らないー! 

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㬢朗禅師は舜峰義韶の弟子で、唐の末ごろ、河北・磁州の桃園山に住したひとである。

ある日、ある時、

僧問、如何是祖師西来意。

僧問う、如何ぞこれ祖師西来の意。

ある僧が問うた。

「祖師=達磨禅師が西の方・天竺から、東方のチュウゴクにお見えになった、そのときのお考えは何だったのでしょうか」

これは禅者が相手の力量を推しはかるための基本的な質問である。

㬢朗、答えていう、

西来若有意、斬下老僧頭。

西来にもし意有らば、老僧頭を斬下せよ。

「西の方からお見えになった、そのときに何かお考えがあったのなら、わしの頭を斬り落としてもらおうか」

かなり斬新な回答であったので、質問者がちょっとひるんだ。

「どういう意味ですか? (西来の意は無かった、ということを強調しただけですか?)」

㬢朗曰く、

不見道、為法喪躯。

道(い)うを見ずや、法のためには躯を喪わんと。

「おまえさん、聴いたことがないのかね、「仏法のためには自分の体を棄ててもよい」ということを」(仏法のためだったのだろうなあ)

この場合、頭が体を棄ててしまってもいい、ということのようである。

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「五燈会元」巻十五より。

解釈はできると思いますが、しなくてもいいでしょう。こういう乱暴な会話の中に、真理の切れ端でも無いものか、と当時の禅僧たちは探し回っていたのである。悟りの縁さえ満ちていれば、どんなところにもその糸口はあるものであるから。

・・・まだ頭痛い。明日は治るかなあ・・・。

 

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