本日は大先輩の送別会にて二次会まで。予想通り頭痛がひどくなってきました。こんなに痛いんなら、もう頭なんか要らないー!
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㬢朗禅師は舜峰義韶の弟子で、唐の末ごろ、河北・磁州の桃園山に住したひとである。
ある日、ある時、
僧問、如何是祖師西来意。
僧問う、如何ぞこれ祖師西来の意。
ある僧が問うた。
「祖師=達磨禅師が西の方・天竺から、東方のチュウゴクにお見えになった、そのときのお考えは何だったのでしょうか」
これは禅者が相手の力量を推しはかるための基本的な質問である。
㬢朗、答えていう、
西来若有意、斬下老僧頭。
西来にもし意有らば、老僧頭を斬下せよ。
「西の方からお見えになった、そのときに何かお考えがあったのなら、わしの頭を斬り落としてもらおうか」
かなり斬新な回答であったので、質問者がちょっとひるんだ。
「どういう意味ですか? (西来の意は無かった、ということを強調しただけですか?)」
㬢朗曰く、
不見道、為法喪躯。
道(い)うを見ずや、法のためには躯を喪わんと。
「おまえさん、聴いたことがないのかね、「仏法のためには自分の体を棄ててもよい」ということを」(仏法のためだったのだろうなあ)
この場合、頭が体を棄ててしまってもいい、ということのようである。
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「五燈会元」巻十五より。
解釈はできると思いますが、しなくてもいいでしょう。こういう乱暴な会話の中に、真理の切れ端でも無いものか、と当時の禅僧たちは探し回っていたのである。悟りの縁さえ満ちていれば、どんなところにもその糸口はあるものであるから。
・・・まだ頭痛い。明日は治るかなあ・・・。